『どこかで「ほどほど」を設定すべきだ」。   という言葉を耳にしたときに、「それじゃ困る、それじゃだめだよ」と思ってしまうようなら、その先生は2,3日仕事を休んだ方がいい、と私は思う。   長丁場になる。疲れないやり方をつくっていかないと。  

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ここまでやる意味、あるのかな。      写真はネットから拝借しました。


分散登校が終わり、通常の学校が戻りつつある。

 

友人の教員から聞こえてくるのは、分散登校時のゆったりした授業のこと。同じ授業を繰り返す頻度は多かったが、それでも半分の数の生徒に向かって、いつもより短い時間語りかける授業は新鮮だったと。

 

三密に気を配り、消毒に明け暮れる日常は、疲労が何倍にも感じるそうだ。

 

お店に入るときに置いてあるアルコール液で消毒する。

見ていると、お店の従業員は客が出たあとすぐにテーブルやいすなどを消毒する。

把手やトレイなども同様だ。どこまでやるかが問題だ。

 

強迫性障害の場合、ウイルスによる汚染などが気にかかり、手を洗浄したり消毒したりすることがやめられなくなる。手袋をしないと何も触れないという症状もある。自分では「これはおかしいぞ」と思っていてもやめられない。戸締りが心配で何度も確認しているうちに外出ができなくなったりする。つらい病気である。

 

こういう傾向は、私にもないわけではないし、「あるある」と思う人は少なくないはずだ。

 

だから私たちは、気になることがあっても、たとえば汚染などに対してもどこかで「ある程度」という限度を設定しなければ平常の生活を保てない。

 

トイレから出た時に、20秒間手を洗うより1分間洗った方が清潔さが保たれるのは当然だが、では3分ならばもっと・・・。

実際には、どの程度洗えば清潔さが保たれるか一定の線があるはずなのに、気になるのはどこか心が不安定になっている証拠だ。

 

今までにないコロナの広がりはそんな不安を募らせる。一定の線や限度なんてわからないからやみくもに消毒に走ることになる。

消毒用アルコールが払底しているということから、酒造会社が高濃度の消毒用アルコールを売り出している。

 

 

「ここもやった方がいいですよね」「この段階でも消毒が必要ですね」といった提案が教員から次々に出てくるのが学校だ。

本質論や空中戦は嫌われるけれど、小さなノウハウの交換は盛り上がる。後年の職員会議の印象だ。

 

子どもたちをウイルスから守るためにやれることはすべてやろう、という空気に抗うのは難しい。

水を差すようなことを云うと、あなたは本気でコロナから子どもたちを守ろうとしているか、などと反論されてしまう。

 

いつの時代も同じ。

 

「じゃあ、それってどこまでやるの?」

 

そういう言い方がいい加減だということなる。

実は、誰もが漠然と考えてはいるのだけれど、口には出せない言葉なのだ。

 

アルコール液がなくなったらどうするんだ?

学校は困ったときには親頼り、地域頼り。「使ってください」なんてアルコールを持ち込んできてくれる親切な人たちもいる。

 

それもなくなったらどうする?

 

やればやるほど安全性が保たれるという考えは、強迫的なものなっていき、他人の言動が気にかかって、時には許せなくなったりする。

当の子どもたちのちょっとしたゆるい?動きにも過敏になる。

 

そのうち自分で街に出てアルコールを物色するになっていく。

 

教員の動きにはこういうところがある。

 

自分のためにではなく、「子どもたちのために」が高じると、とまらなくなるのだ。

 

『どこかで「ほどほど」を設定すべきだ」。

 

という言葉を耳にしたときに、「それじゃ困る、それじゃだめだよ」と思ってしまうようなら、その先生は2,3日仕事を休んだ方がいい、と私は思う。

 

長丁場になる。疲れないやり方をつくっていかないと。

 

 

さて、久しぶりに映画館に行ったのは、先週の金曜日、6月26日のことだ。

 

『巡礼の約束』(2018年/109分/中国/原題:阿拉姜色 Ala Changso/監督:ソンタルジャ/脚本:タシダワソンタルジャ/出演:ヨンジョンジャ・ニマソンソン・スイチョクジャ/2020年2月日本公開)★★★★☆

「チベット人監督作品として日本で初めて劇場公開された「草原の河」のソンタルジャ監督が、聖地ラサへの巡礼の旅に出た妻と家族の姿を描いたヒューマンドラマ。山あいの村で夫のロルジェ、夫の父と暮らすウォマは、ある夢を見た朝に火をおこして供養をする。そんなウォマの姿を見た夫は、それは誰のための供養なのか、ウォマは誰の夢を見たのかが気にかかっていた。病院で医師からあることを告げられたウォマは、ロルジェに「五体投地でラサへ巡礼に行く」と決心を伝える。妻からの突然の言葉に、ロルシェは反対するが、ウォマの固い決意を前にラサ巡礼を受け入れる。妻を心配し、後を追う夫。さらに心を閉ざしていた前夫との息子ノルウも母ロルジェに会いにやってきた。血のつながらぬ父と息子は、母を亡くした1頭の子ロバとともに聖地ラサへの巡礼の道を歩き続ける。」(映画ドットコムから)

 

カメラはどこにあるんだ?

風景も人もカメラを通して私たちは「映画」をみるが、その「視点」が風景のなかに一体化しているような感覚が見終わっても続いていた。はて、なにを見ていたんだ?たしかに劇映画であるのに、「つくりモノ感」がまったくないのだ。つくりモノが悪いと言っているのではない。映画は所詮つくりモノ。でも、つくりモノの中に観客を引きずり込むその方法が違うのだ。よけいな説明は一切せずに、ただただラサに向かって五体投地を続ける妻と夫、そして妻の連れ子。緩急という言葉があるが、これは緩だけでつくられる緊張の持続だ。すごい映画だ。