3密の陰で「回路」をうまくつくれない子どもたちがいるかもしれないということをアタマのどこかに置いておくべきだと思う。

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写真はネットから拝借しました


都内のいくつかの区立小で、教員がコロナに感染したとの報道がなされている。

学校が再開されて1か月、予想されたこととはいえ、心配である。

 

コロナは、教育とか養育、保育という営みとの相性は最悪である。

 

いろいろな表現の仕方があるが、子どものそだつ過程は、自然性と社会性が入れ子状態をなしていて、年齢が下がれば下がるほど自然性が占める部分が大きく、年齢が下がれば社会性の部分が増えていく、と私は考えてきた。

 

別の言い方をすれば、大人との身体的距離感は年齢が低いほど密接であるし、年齢が上がっていけば身体的距離は適度に広がっていくということだ。

 

さらに別の言い方をすれば、年齢が低ければ低いほど、その関係の中で言語の占める割合は低いし、年齢が上がればその割合は上がっていく。

 

低年齢になればなるほど、感情や情動の交流のようなものの占める部分が大きいということになる。

 

3密回避が社会生活を維持していくうえで必須というのが、コロナに対する基本的な姿勢であることは疑えないが、こうしたことを考えると、3密回避が子どものそだちにとっては大きな阻害要因になることも事実ではないか。

 

現役時代は中学生に長くかかわったが、小学生に比べて大人に見える中学生でも、明らかに「身体的、感情的交流」が優先されるケースは少なくなかった。とりわけ中学二年の今頃にひとつの境目があって、それまでとそれ以後、時期的には中2の夏休みを終える頃に大方の中学生は言語能力が高まり、大人との身体的距離をとるようになるという傾向が強かったように思う。

 

こんな視点からマスクについて考えてみると、マスクが阻害するものは単に一人ひとりの子どもの表情だけでないことがわかる。

身体的、感情的交流を必要とする年齢の低い子どもたちにとっては、言語という社会性をもったツールよりも、教員や友達の表情や体感のようなところから関係をとるのだが、マスクはそうした子どもの全体性のようなものを奪ってしまう。

 

現場で子どもに向かう時、こういう問題を教員は瞬時に把握して対応をとるものだ。

眼以外の顔の表情で伝えられない分を何で補うか。それは、教室の中に30ものマスクがある中でたやすいことではない。

声や言葉遣いが重要なことは言うまでもないが、言葉に頼りすぎれば、伝わるものの豊かさが減衰することも事実だ。

また、男性の声に対しても子どもは敏感だ。

女性の声に対する経験値にくらべ、男性の声に対して子どもたちは慣れていないのではないか。

中学一年生に対して、低く大きい私の声が威圧感を伴って受けとめられることがあったが、表情が見えない男の大人の声は、子どもにとっては不安を呼び起こすかもしれない。

 

マスク一枚がはたす「疎外」を軽く見るべきではない、と思う。

 

江東区の小学校の教員の感染が今後どのような事態につながっていくのか。

多くの学校で7月に入り、給食が始まったり、部活動が再開されたりしている。3密回避は維持されるだろうが、その陰で「回路」をうまくつくれない子どもたちがいるかもしれないということをアタマのどこかに置いておくべきだと思う。