深更に目が覚めるのはいつものこと。たいていは2時前後。少し蒸し暑いかなと扇風機をつけた。30分ぐらい、本を読む。
外が少し明るくなるころ、起きる。カーテンを引く。本降りの雨。テラス戸を開けると冷気が流れ込んでくる。冷気と云っても、室内との温度差はわずかだ。
クチナシのつぼみが全て開いている。アジサイは咲いてからの最盛期が長いが、クチナシは咲いたとたん、しぼみ始めるように感じる。
散歩はあきらめる。あきらめると書くのは、楽しみだからだ。この散歩に出ないと、一度も外に出ないことになる。殊にこの3か月はそうだった。
朝食からお茶の10時までの時間がいつもより長くなる。1時間半ほど。
今、8時半。雨の音を聞きながら、これを書いている。
散歩と云えば、6月半ばまでは2人ともマスクを着用して歩いていた。
けっこう暑くなってきたし、歩く人の数も学校や会社が始まったせいで、みるみる減っても来たので、二人ともマスクをやめた。
しかし、いまだ少数派である。
ジョギングをしている人たちは、覆面のような専用のものを着用している。歩いている人たちは老若男女、それぞれ思い思いの色鮮やかなマスク。
たまにすれ違う人が怪訝な表情をする。
(どうしてマスクしないの?)
炎天下、ほとんど人と接触することがないのに、
(どうしてマスクしているの?)
無言のやりとり。
マスクをしている人は、マスクをしていない人のことが気になる。
マスクをしていない方は、あまり気にならない。
そんな怪訝な表情をされたくないから、マスクをしているという人が多いのではないか。
家のかぎ、定期券、スマホ、そしてマスク・・・と外出するときに確認するアイテムのひとつにマスクが入った。
勿論、私たちも含めて乗客はみなもれなくマスクをしている。
湘南台駅から、年の頃二十歳過ぎの小柄でやせた青年が乗り込んできた。
向かい側のベンチシートの端に恰幅のいい年配の男性。
その隣りが二人分ほど空いていた。青年は年配男性の隣に坐った。
すると、なにやら低くぶつぶつと云い合う声が聞こえる。
年配男性の方が、「離れて坐れよ」と云ったようだ。
青年はやや興奮気味だが小さい声で「アンタだけの電車じゃないだろう!」という意味の反論をしているようだ。
2、3度言い合いを繰り返し、言い合いがそれ以上紛糾することはなかった。
ほんの少し経って、青年の反対側の座席ひとつ空けて坐っている、年の頃30代半ばの男性に向かって、青年が「足を引っ込めて」と云い始める。
電車の中は込んでいないし、男性の足が誰かの妨げになっているということはなく、こちらから見てもさほど不自然な出し方ではなかったのだが、青年は気になるらしく、手振りで「ひっこめて」と云っている。
云われた男性は、黙ってひっこめる。青年は少し満足そう。
青年を中心に、マスク越しのやりとり。
知らない者どうしのやりとり。ふだんならば注意をされるとムッとするもの。時にはお互い引かずに喧嘩になってしまうことも。
向かい側で二つのやりとりを見ていて、マスク一枚が障壁になって感情の爆発に至らなかったのではないか、と思った。
口さえ閉じれば、マスクが表情を隠してくれる。
年配の男性は、腕組みをして目をつぶり、30代男性は無言で足を引っ込めた。
コロナ以前であれば、空いている座席に誰かが坐るのは当たり前だったし、それが自分のとなりであっても、不満を口にする人はいなかっただろう。
立っている人が一人もいない空いた電車の中で、わずかに足を延ばし加減の人に注意をするひとも、いなかったのではないか。
マスク着用が常態化することで、他人のことを気にかけない他人が気にかかるようになっている。
もう少し気にしろよ、みんなそれぞれ気遣っているんだから、という空気の蔓延。
気遣っていない人には、どんどん注意してもいいんじゃないか。
だって「正しい」ことを云っているんだから。
マスクは「自粛」のメタファー。
「正しい」を背景に人に迫るのは気分のいいことなのだろう。
青年は、年配男性の「自粛要請」に対し、空いていればどこに坐ってもいいじゃないかという着席の自由の原則論を展開し、一方、30代半ばの男性に対してはたとえ込んでなくても、足を出して坐るのはよくないと指摘した。
人は、立っている(坐って?)いる場所で云うことも変わるし、正しさもそのときどきでベクトルを変える。
コロナ後の新生活様式、なんてことがよく云われるが、コロナは今まで見えなかったものを見せてくれる。