たとえば抵抗する権利、賭け事を愉しむ権利、薬物でさえ処罰の対象から外している国があることを考えれば、一考の余地は残っている。そういう視点も忘れてはならないように思う。

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くちなしの花芽


毎日27%、朝日29%、安倍政権の支持率。

 

本日夕方、首相自ら記者会見をして1都1道3県の緊急事態宣言解除を宣言するのだとか。

専門家会議は、本日午前中。そこで議論されて初めて「結論」となるだろうに、前日からスケジュールが発表されているおかしさ。

 

感染者数と死者の数も揺らいでいる。「隠れコロナ死」は、ニューヨークでは5000人を超えるとか。

 

東京の例年の死亡者は、1月は457人、3月は324人増えている。これらはコロナが死因とされていない。死因不明でも解剖されていない遺体が多くあるという。隠れコロナ死がどれほど含まれているか。

 

支持率が下がったという報道と、与党内から「異論」次々という報道。

異論は「検察庁定年法」の問題。

 

さらに、安倍に近い時事通信田崎史郎が「総理も法務大臣も処分について会見をしている。していないのは検事総長だけだ」として、黒川処分は、検事総長が決めたものと決めつけた。

けさの共同は、検察や法務省は懲戒処分を考えていたが、官邸が訓告という判断をしたとの検察内部(たぶん)のリークを報じた。

支持率含めて官邸の動きが不安定になったからこそ、「異論」だけでなくふだんなら出てこない思いがけない反応が出てくる。

 

グタグタの状態に向かっているようだ。

 

処分の量定について考えてみよう。

処分には当然ながら公正、公平であることが求められる。それでもなかなか「妥当」とはいかないもの。だからそれぞれ指針が定められている。

人事院の処分の指針には

 

第2 標準例の 3 公務外非行関係に

  (9) 賭博

   ア 賭博をした職員は、減給又は戒告とする。

   イ 常習として賭博をした職員は、停職とする。

 

とある。つまり、黒川検事長の行為が「賭博」と認定されれば減給か戒告、毎月3回ほどもやっているのだから常習性も疑われる。そこに何と言っても東京高検検事長という立場・・・結論はおのずと明らかである。

 

共同通信の報道のように、「訓告」の量定は官邸が決めたのだろう。首相をして「余人をもって代えがたい」と言わしめた人物が、賭けマージャンで懲戒処分を受けるなどということは、官邸にとってはあってはならないこと。法務省や検察が何といおうとここだけは譲れない。懲戒処分となれば官邸がもたない。

 

そこで出てくるのが、麻雀のレートである。

テンピン(1000点100円)ならば、慣例的に賭博罪は問われないとう不問律があるという。つまり生活を脅かすようなものでなく、「遊び」程度だというのである。

黄色信号でスピードを緩めずに通過しても、信号違反にはならないというのと同じだそうだ。そこまで取り締まることは不可能というのだ。

 

故路川検事長の元運転手の発言に、黒川がかつて「今日は10万円やられちゃったよ」と言っていたというのがあった。

一晩で10万円、はテンピンではほとんどあり得ない。だから私は1000点1000円の点棒要らずのマージャンではないかと書いた。はこテン(持ち点ゼロ)3回で9万円だからだ。

テンピンならば一晩にいくら負けても、2万円ぐらいだろう。そこまで行くことはあまりないはずだ。だからちょっと疑わしい。最低でも1000点200円ぐらいでなければ、賭け事として面白くないのではないか。

 

テンピンならば賭博罪には問われないのだという。

だから「訓告」。

 

テレビでは「訓告処分」という言い方をしているところがあるが、訓告は、行政行為としては「処分」であるが、懲戒処分という意味での「処分」ではない。

訓告、戒告、減給、停職、免職のように段階で並べられたりするが、訓告と戒告の間はかなり深い溝があり、並べられるものではない。訓告は注意であり、戒告以下は懲戒である。

 

結論。賭けマージャンはとばく罪に問われないし、起訴もされないから懲戒でなくてよい、とはならない。マスコミとのなれ合い、検察庁法が審議されている中、また新コロナウイルスの自粛が呼び掛けれている中、今回の行為が、検察ナンバー2といわれる法の番人の行為として適切かどうか。道義的責任は免れない。停職が相当、だと私は思う。

 

だいたい、黒川検事長は取り調べを受けているのだろうか。検察は黒川を捜査したのだろうか。

法務省も検察も賭博罪にはあたらないとして捜査をせずに処分を急いで幕を引こうとした。どっちにしても黒川の検事総長就任はなくなったのだから。そして官邸は・・・。

急激な支持率低下が、この問題の評価をあらわしている。

 

 

つけたし。

賭博の問題は簡単ではない。

競輪、競馬、競艇、オートなど国が認可して認められている賭け事がある。テンピンどころかいくら賭けてもよい。公営ギャンブルで身を持ち崩す人もいる。

パチンコはどうか。賭博には間違いないが、間にワンクッション置くことでと賭博ではないということになっている。しかし自由に開業できるわけではない。警察が絡んでいる。パチンコ業界と警察は切っては切れぬ中だ。

賭博を仕切っているのは、この国では国家権力であるということだ。

かくして、国民はこれ以外の賭け事を私的にやれば、その行為は違法となり、見つかればとばく罪に問われることになっている。

 

やっていることは同じ。問題は、だれが胴元をやっているか、だれが認めているかである。IR問題も同じである。依存症対策をちゃんとやればいい、などと言いながら進めているのは国である。自治体も競って手を挙げている。

 

銃刀法所持罪と比べてみよう。銃刀を所持してよいのは、警察と自衛隊等のほか、民間人は厳しい規制のもと許認可を受けて所持を許されている。

 

もともと銃刀の所持を規制する発想は、秀吉の刀狩り以来、国家に対する反逆を防止す意味合いが強い。武器の所持を規制するということは、抵抗権を抑圧していることにつながる。

 

覚せい剤はどうか。

 

賭博も薬物も銃刀も国家管理の視点からすれば、国民の自由を奪う行為であることはまいちがいない。

依存症の視点は大事だし、それを前面に出されれば、賭博を国家が管理することが是とされるかもしれないが、実際には規制はそれほどでない。青天井で賭けられる仕組みだ。

 

いずれも、国家による独占が市民の自由、権利を侵しているともいえる。

たとえば抵抗する権利、賭け事を愉しむ権利、薬物でさえ処罰の対象から外している国があることを考えれば、一考の余地は残っている。そういう視点も忘れてはならないように思う。

 

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すき間犬(お隣さん)