昨日、今日と朝の気温は14℃。都心では11℃とか。
ここは都心から30㌔ほど西に位置する。比べるといつも少しこっちが高い。でも、横浜の中心部よりは1~2℃低い。10数㌔北に位置するからか。
マスクがいい防寒具に。
16号に車が多く、境川の遊歩道に人が少なくなっている。家族連れでランニングする姿が減った。なんとなく緊急事態宣言解除の方向に向かっているのだろうか。首都圏の解除はまだ先のようなのだが。
カワセミの姿が消えた。
もう10日間ほどもカワセミを見ていない。巣があったあたりでも全く見かけない。
みなカラスにやられてしまったとは思えない。避難?してしまったのか。
代わりと云ってはなんだか水面すれすれに飛ぶツバメの姿をよく見る。目立たないチチチという鳴き声。
文春砲、またまた炸裂。
世の情勢を動かしているのは、新聞やテレビではなく文春?
高検の黒川検事長が産経の記者、そして朝日の元社員と賭けマージャン。
さきほど辞任との速報が出た。
辞任はおかしい。普通の公務員なら、とりあえず自宅に蟄居せよ、追って沙汰を待て、ということになるところが、エラい人だと辞任が先に出てしまう。
不法行為なのだから、賭博容疑で捜査が行われ、もちろん家宅捜査もされなければならないだろうし、そうして立件、起訴、不起訴、起訴猶予、がはっきりしてから懲戒処分が出される流れ、となるべきところ。
辞めて済む問題ではないだろう。
産経新聞の記者も同様。こちらも不法行為は明らか。法的に対応するのは当然だし、社内の処分だけでなく、内部に第三者による調査委員会を設置し、検察官と不法行為を日常的に行ってきた社の「土壌」について問題点を明らかにすべきだ。
元社員の朝日新聞も同じ。「現」で「元」でも、新聞社にとっての問題としては変わらない。ジャーナリズムにとって、これほど恥ずかしい話もあるまい。
なのに本日の朝日新聞朝刊。全部で30ページの紙面のうち2面半を使って「夏の甲子園大会中止」の記事。
ずれていると思う。差し替えるべき。
『教育の一環、大会の原点』とのタイトル。美しい物語。
つい「商売の一環」と皮肉りたくなる。
オリンピックだってやらないんだから、高校野球も無理でしょ、というのが庶民の感覚。
でも高校野球だけは別物らしい。
https://www.asahi.com/sports/events/
なくなって困る人がたくさんいる。甲子園で食べている人がどれだけいるかという話になる。
なくなって困る人たちのために甲子園大会があるわけではないのに、いつのまにか高校球児の「努力」は、甲子園商売システムの原動力とされてしまう。
本末転倒。
もともとの理念はたしかにあったのだろう。
いまでは、有象無象の会社やおっさんたちなどの不随物、不純物の方が重要になっている。
それでも何のための大会かが問われると、「教育の一環」。
そんな教育の一環もコロナによって、中止になる。
年々ひどくなる真夏の炎天下で、なぜ何時間もの試合をしなければならないかという問題提起に応えないできた主催者は、大会が「教育の一環」であることなどどっかに忘れたままにしてきたのではないか。
「努力は無駄ではない」とのタイトル。
努力してきたのは高校球児だけではない。なのに、こうして2ページ半を使って「中止」を論ずるのは野球だけ。
なぜ?
全日本吹奏楽コンクールや全日本合唱コンクールの高校部門も、参加校、参加生徒数からすれば高校野球に比肩する。
この二つのコンクールの主催者も朝日新聞である。
このほかにも、朝日新聞は高校生の全国大会をいくつも主催をしているのではないか。
「教育の一環」「努力は無駄でない」という相手は高校球児だけでいいのだろうか。
というような議論があるが、コロナがわたしたちに迫っているのは、
そんなあれこれよりも、
「全国大会」というかたちで一堂に会して優劣を競うことの意味
なのではないか。
「頂点を極める、めざす」というあり方の意義が問われているのではないか。
人と人が競い合う別のかたち、があってもいいのではないか。
コロナ後、ふたたび同じ形で「教育の一環」が繰り広げられるとしたら、私たちはコロナから何も学ばなかったということになるのではないだろうか。