画面を通して見えなくなるものって、私の感覚だと7割ぐらい。オンラインでつかめる情報は3割ほどという感じがする。

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鮮やかな黄緑、柿の木。昨日の朝。

医療従事者に対する感謝をさまざまなかたちで表現している報道がいくつもある。青色での照明や具体的なメッセージなど。

 

その一方で、医療従事者への差別も報道される。

 

総体というか概念としての医療従事者に感謝しながら、具体としての医療従事者に対しては忌避する。

 

実際に存在するのは、具体としての医療従事者だけで、概念としての医療従事者などどこにもいないにもかかわらず、だ。

 

どこにいないものに対して「感謝」が捧げられる。捧げやすい?

 

医療従事者に対してさまざまなかたちでの報酬がなされるべき。

お金はもちろんだが、安全を担保する医療防具等の最大限の確保、精神的な安定を保つためのさまざまなPR活動、そういったものを国家が率先して早急にやらねばならないのに、出来ていない。

 

不満がたまると弱いところへ、厳しいところにいる人たちへうっぷんが向けられるのは社会の未成熟さだけでなく、人を助けるためのさまざまな社会システムが脆弱だということだ。

それはそのまま、社会を一定にコントロールする政治の脆弱さということになる。

今、ふだんは見えない政治家の右往左往がよく見える。きれいな言葉で糊塗しているが、日々の発言のブレはごまかせない。

 

もうひとつ在宅勤務について。

在宅勤務をしている人のほとんどは正規労働者であり、相対的に賃金の高い人たちだ。

いわゆる現業の人たちは、実際に現場に行くことが労働であり、在宅では不可能な労働に携わっている。相対的に賃金は低い。

 

じっと自宅で引きこもっていると、社会が維持されているのは、間違いなく現業の人たちの労働に依拠していることがわかる。

 

医療や介護、教育、農業、流通に限らず文化、芸術、に至るまで「現場」で働く人がいて社会が成り立っている。

 

賃金の高い人たちの労働よりも賃金の低い人たちの労働で社会が成り立っている。

 

新型コロナウイルスが明らかにしたのはそういうことだったと思う。

 

次に「オンライン」で授業が代替できると考えている人。

分散登校がダメならオンラインがあるじゃないか、という。そうだろうか。

 

眼のまえにいて初めて成立する関係というものがある。

画面を通して見えなくなるものって、私の感覚だと7割ぐらい。オンラインでつかめる情報は3割ほどという感じがする。

 

オンライン呑み会って楽しいかい?3割ぐらいの楽しさでも、それはそれで貴重だよ、という考えはわかる。それは呑み会だから。

 

授業はどうだろうか。

講義だけならまだしも、小、中学校の授業の何割かは「養育」の側面が大きい。

 

教育も養育も、直接顔を見て直接声をかけることで成立する。

 

オンライン授業にはそれがない。