広島現代美術館で起きたこと。「これ、ヤバイんじゃね?」的な超浅薄な発想から出てきたもの。 こういうのを品性を、下にして劣、という。

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毎日新聞文化欄4月14日

広島に行った時には、かなりの確率で現代美術館に行く。絵を見に行くというより、気分転換のために散歩気分で出かける。

 

市内周遊バスも、平和記念公園近くから東のはずれの比治山の上まで行ってくれる。帰りもそのまま広島駅まで行ける。帰りの新幹線に乗る前に少し時間があれば気楽に行ける、そんな美術館。ここの空気が好きだ。

 

内部はもちろん外の彫刻や西に向けた眺望も素晴らしい。夕方に行ったことはないが、たぶん夕日がとってもきれいなのだと思う。

 

企画展も意欲的。ヒロシマへのこだわり、現代美術へのこだわりが感じられる企画展が開催されてきた。1989年開館というから、開館直後から訪れてきたことになる。


https://www.hiroshima-moca.jp/exhibition/cat/special_exhibition/


もちろん市内にもひろしま美術館がある。ここもかなりいい。ピカソセザンヌゴッホルノワールなど名品、名作が揃っている。建物自体がユニークなつくりで、気がつくと館内を何度も廻っている、そんな美術館。
https://www.hiroshima-museum.jp/collection/

 

文学館がないのが残念なのが広島。しかし美術館は充実している。

 

 

 

他の新聞では報道されなかったようで、この問題を知ったのは広島在住の友人からのメール。

 

各地で行政による表現の自由への容喙が続いているが、これもその一つ。

広島市現代美術館が企画した「A BRIGHT HOME アカルイ カテイ」という展覧会に対する信じられないチェックの話である。

 

この展覧会のコンセプトは次のようなもの。

 

昭和14(1939)年に上梓された「明るい家庭」という1冊の本があります。家庭を明るく保つための女性のふるまい方をさまざまに説くその本は、冒頭、料理の味を生かすも殺すも塩次第だとの側室の説明に得心したという徳川家康のエピソードを引き、家庭において女性はいわば「調味料」の役割を果たすべきだと暗にほのめかし、はじまります。 しかし、引き合いに出された家康にとっては、まるで見当のつかない話かもしれません。なぜなら、そもそも日本において「家庭」や「家族」は、それまでのイエ制度に取ってかわるものとして明治時代にあらたにつくられた概念なのですから。 では、現代に生きるわたしたちには、どのように聞こえますか。 この展覧会では、明治大正生まれの作家から1980年代生まれの作家まで11人を取りあげ、彼女/彼らの創作活動のなかに家庭や家族がいかなる影を落とし、いかなる光を照らしているのかを見ていきます。それによって「明るい家庭」をアップデートし、この先の「アカルイ カテイ」実践の方法を探ってみたいと思います。(広島現代美術館HPから) 

 

 

受け止め方は人それぞれだが、私は、近くだったらぜひ行って見てみたいなと思う企画だ。

 

さて、役人の登場だ。都市計画課?なんで?

 

この企画展の広告が商店街に架けられる懸垂幕であったことによる。

 

この広告の中の写真が問題となった・・・という言い方は間違っている。

 

「なった」のではない。「した」のである。

 

記事の上の写真が「問題の写真」である。

 

私はこの記事を読んだ時、何が問題になっているのか、正直わからなかった。2回読んで、ブランコに乗っている女の子の足が問題だとようやくわかった。

 

この課長、この足が

 

「未成年に対する不健全な関心を想起させるものと受け止められる可能性があると考えられ、要領に定める『公序良俗に害するおそれ』に抵触する懸念がある」「焦点がは美術館ないとは異なり、さまざまな人の目に触れる公共的空間であることを配慮し、慎重な対応をお願いする」として変更の検討を求めた、という。

 

課長、この写真はあなた自身の不健全な関心を刺激したのではないですか、と思うのは下品か?

 

この写真を見て「未成年に対する不健全な関心を想起する」人が、一人もいない、絶対にいない、とはいわない。

 

黒くて硬い棒きれをみて「おっぱいみたい、触ってみたい」という劣情を抱く人がいるかもしれない。

でもそのとき、「棒切れが問題だから、どこかに捨ててきなさい」というだろうか。

 

 課長が、数十万の市民の立場に立って、中には「不健全な関心を想起する人がいるかもしれない」と考えたのか?

 

そうではないだろう。課長の感覚にすぎない。

 

想像するのは自由だし、勝手である。課長にもその自由はある。

 

しかし、「公序良俗を害する恐れ」を判断するにはそれなりの根拠というものが必要になるだろう。

 

課長個人の感覚、趣味、志向で『公序良俗』を判断するなということだ。

 

この写真を見て「不健全な関心」=劣情=性的なものを想起する人は、ほとんどいないだろう。

たとえいたとしても、それが何の問題か。

 

そういうごくわずかな人の劣情をもって、表現の自由を侵害する材料としていはいけない。

 

否、課長に劣情があったのではない、とするならもっとこわい。

 

表現の自由侵害の流れを敏感にキャッチ、広島でもやってやるぞ、なんてことだったとするなら困ったものだ。

 

 

あちこちで起きている根拠も意味もない自己規制が、どんな社会をつくっていくのか。

 

どちらにしても「これ、ヤバイんじゃね?」的な超浅薄な発想から出てきたもの。

こういうのを品性を、下にして劣、という。

 

現代美術館は、記事下の写真のようにその部分を白塗りにして「そういうの、おかしいよ」という意思表示を明確にしている。表現の自由を守ろうとする者が、自分のスタイルでそれを主張している。

 

こういう品性を、高にして潔というのだろう。私はこちらを、断固支持する!