京都市長選与野党相乗り候補、当選の万歳三唱、手のひらが内側に向いていた。「正しいばんざい」はあるのか?

今冬、最低気温。都心ではマイナス1.5℃と天気予報。拙宅のテラスはちょうど0℃。

 

 

天声人語高村光太郎の「冬が来た」(道程)。分かりやすい、というか、ひねりがないというか。

 

 

散歩、さすがに手がかじかむ。境川西岸を歩く。7時前後には西岸に朝日があたり始めるからだ。

 

帰りは朝日に向かって歩く格好に。往路と違ってかなり温かくなる。

 

カワセミ2羽発見。

 

 

昨日、久しぶりに胃の内視鏡検査。終わったらそのまま関内のシネマリンまで『コンプリシティ 優しい共犯』を見に行くつもりが、検査のダメージ強く断念、昼過ぎに帰宅。

 

 

昼食後、2時間も眠ってしまう。ダメージのせいかそれとも鎮静剤の影響か。

 

 

 

突然だが、ばんざいのこと。

 

京都市長選は、与野党相乗りの候補が当選。対抗馬二人の票数を合わせれば、当選者を上回っていた。

共産党とれいわ新選組が組んで、相乗り候補に闘いを挑むという面白い構図であったのだが。

 

京都で新選組が・・・とだけ書くと、はて、いつのことかと。

 

 

週刊金曜日』の「まるごと山本太郎れんわ新選組」という臨時増刊号は面白かった。

増刷しているらしい。

 

京都の市長選だが、当選が決まると当然のように「ばんざい」をやる。この候補もやっていた。

 

よく見るとこの人のばんざい、両手を挙げているが、手のひらはうち向きだ。手のひら同士が向かい合っている。

 

この間、戦没作曲者のことで「汽車ぽっぽ」の元歌の「兵隊さんと汽車」の動画を見た。このばんざい、若い女性の歌手だったが、両手の日ひらは前に向いていた。

 

レビューがあって、「これは正しくない。正しいバンザイは手のひらを内側に向けるもの。前に向けるのは「お手上げ、降参」のバンザイである」といった意味のことが書いてあった。

 

天皇即位の時のアベ首相のばんざいの写真を見ると、手のひらは内向きだ。

 

正しいばんざいの方法というのがあるのかと調べてみたら

 

https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/banza-banzai-banzai

 

こんな記事が出てきた。

 

結論としては「ばんざいの正しい方法」などないということ。この記事中の写真では自民党の総裁だった中曽根、海部両氏も手のひらを前に向けているし、戦時中に敵地占領した兵隊も同様である。

 

こういう形式を後生大事に言い募る人がいる。だからフェイクの「万歳三唱令」が大昔からあるかのように思い込んでしまう人も出てくる。

この「万歳三唱令」、元はと云えば、80年代後半にゴルフのコンペの打ち上げの時に酔っぱらった勢いでつくられたものだという。

 

それにしても、手のひらを前に向けるより、内側に向ける方がなんだか意味ありげに見えるのが面白い。

 

お焼香の回数は〇回が正しい、というのと同じレベルの話。だいたい生涯でばんざいをしたことって何回あるかな。

はっきり覚えているのは、職場の先輩の披露宴を新潟でやったときに、宴の締めに仲人の方がやった万歳三唱。私は司会だったので、やったと思う。仲人の方は同業の方、困った表情で中途半端なばんざいだったのを覚えている。

 

 

これに類する話として、神社で参拝するときの「二礼二拍手一礼」が思い浮かぶ。

 

小さかったころ、正月には大正5年生まれの父親と神社に参拝したが、教えられたのは、かしわ手を打つことだけ。回数も父親に従って2回打つだけ。

 

周りに重々しく「二礼二拍手一礼」などする人はいなかった。

 

今も少ないのだろうが、時々見かける。

 

いつのころからか、服装や鳥居のくぐり方、手水の使い方までまるで昔からの約束事があるかのような情報の流布が始まった。

 

ネットで「神社の拝礼の方法」と検索すると、東京神社庁神社本庁のHPが出てくる。そこに事細かな「作法」が書いてある。

 

根拠は書いておらず、「・・・参拝作法は、永い間の変遷を経て現在、「二拝二拍手一拝」の作法がその基本形となっています」)神社本庁HP)としている。

 

この「なっています」が怪しい。

 

レストランのウエイトレスが云う「‥‥となっております」と同じくらい、根拠不明。

「いつ、なったの?」と突っ込みたくなる、あれである。

 

 

手ごわいなと思うのは次のような一文だ。

 

「・・・そこに、どう心を込めるか、また込めたほうがよいのかは、参拝される皆さんの心の持ち様ではないでしょうか。

 それがためには、具体的な形におけるそれぞれの作法の意味をわかって戴くことが重要です。もちろん、祈りの心は個々に違っていて当然ですが、参拝とそれにかかわる作法について、その「形」の前提にある「心」をわかって戴ければ幸いです。

私たちの祖先は、神社にお参りをし、あるいは「お参り」を奉仕して、御神威をいただくためには、先ず自ら「心身の清浄」につとめることを、必須の条件と考えていました。」(神社本庁のHPから)

 

心は個々に違っていても当然、しかしかたちの前提として心については分かってほしい。

 

つまり個人的な心と神社に仕える心とふたつあるということだ。

 

その二つ目の心には「心身の清浄」が必要とされ、そのためには「形」が必要という具合に展開されていく。この理屈、どこかおかしい。

 

心があれば形など…ではないのである。

 

「かたち」を整えれば、心が清浄になる。

 

なぜ清浄でなければいけないのか。

 

ふだんの人間は世事に汚れているから、神社に願い事をするときには心身を清浄にしてからだよ、ということだ。

 

それで二礼二拍手一礼、となる。

 

ばんざいよりもこちらの方が罪深いかもしれない。

 

 

 

神社にはいくけれど、参拝はしない。

ばんざいをするような場所にはいかない。

君が代は歌わないし、日の丸を仰いだりしない。

 

 

そうやって人生が終われればいい、と思っている。