竹内良男さん主宰『ヒロシマ連続講座』第95回小村公次さん講演「戦没作曲家・音楽学生の残した音楽」 ③

偶然だが、橋本國彦の戦後につくられた曲を見つけた。『朝はどこから』。作詞森まさる。1946年3月、朝日新聞が「健康的なホームソングを」と全国に募集をかけたもの。10526曲の応募作品の中から、この曲が選ばれたという。

 

 

私は戦後8年経っての生まれだが、この曲は耳にしっかりと残っている。

つい先年、認知症を患って亡くなった義母が、深夜に病床でこの歌をよく歌っていた。

 

詳しい経緯は分からないが、橋本は他の応募者同様、一市民としてこの懸賞に応募したのだろうか。今で云えば芸大教授が一般公募に応募したということになるが、ありえない話ではないと思う。

 

海行かば』の信時潔が、戦中の戦意高揚の仕事から180度転換して、「われらが日本」(1947年日本国憲法施行を記念した国民歌)「日本のあさあけ」(1952年平和条約発効ならびに憲法施行5周年記念式式典歌)を作曲、1964年には 勲三等旭日中綬章を受章したのとは、少し違うような気がする。

 

信時は、その時その時の時局に合わせて、翼賛的な曲を平気でつくったように見える。

それに比べ橋本は、名作「お菓子と娘」の雰囲気に近い明るい色調の曲作りに戻ったかのようだ。

橋本はこの3年後、44歳で不帰の人となる。勲章をもらうこともなかった。

 

今、信時の「われが日本」を歌う人はいないが、「朝はどこから」という温かい曲は、大正生まれの義母の記憶に、70年の間残っていた。

 

もうひとつ、小村さんの資料の中に「汽車ポッポ」をみつけた。

誰もが知っているこの歌、原曲があってそのタイトルが「兵隊さんの汽車」というのだということを初めて知った。

 

   兵隊さんの汽車  
         作詞:富原 薫
         作曲:草川 信
      
 

(一)
汽車汽車 ポッポポッポ
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
僕等も手に手に日の丸の
旗を振り振り送りませう
萬歳 萬歳 萬歳                 汽車ポッポ
兵隊さん兵隊さん 萬々歳       作詞:富原薫

                  作曲:草川 信
                  (一)
                  汽車 汽車 ポッポ ポッポ
                  シュッポ シュッポシュッポッポ
                  僕らを のせて
                  シュッポ シュッポシュッポッポ
                  スピ-ド スピード 窓のそと
                  畑も とぶとぶ 家も とぶ
                  走れ 走れ 走れ
                  鉄橋だ 鉄橋だ 楽しいな

(二 )
汽車汽車 來る來る
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
窓からヒラヒラ日の丸の
旗を振ってく兵隊さん
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳  
                  (二)
                  汽車 汽車 ポッポ ポッポ
                  シュッポ シュッポシュッポッポ
                  きてきを ならし
                  シュッポ シュッポシュッポッポ
                  ゆかいだ ゆかいだ いいけしき
                  野原だ 林だ ほら 山だ
                  走れ 走れ 走れ
                  トンネルだ トンネルだ うれしいな

(三)
汽車汽車行く行く
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
まだまだヒラヒラ日の丸の
旗が見えるよ汽車の窓
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳
 
                  (三)
                  汽車 汽車 ポッポ ポッポ
                  シュッポ シュッポシュッポッポ
                  けむりを はいて
                  シュッポ シュッポシュッポッポ
                  ゆこうよ ゆこうよ どこまでも
                  明るい 希望が まっている
                  走れ 走れ 走れ
                  がんばって がんばって 走れよ<

 

 

まさかあの「汽車ポッポ」が、出征兵士を送る歌だったとは。換骨奪胎とはこういうのを云うのだろう。

 

これに類するものはたくさんある。「われは海の子」や「お山の杉の子」など、占領軍によって禁止、削除されたものも多い。「音楽は軍需品」と言われるゆえんである。

また、人々によって〈替え歌〉とされて残ってきた歌もある。

 

70年代のことだが、カラオケのなかった時代、職場の呑み会の最後はよく皆で声を合わせてうたったものだが、その時にいつの間にか覚えていた歌に「~先生ありがとう」という歌があった。

たしか「♬今日も楽しくのめるのはー、~先生のおかげです♬」といった歌詞で、「~先生」のところに、それぞれの先生の名前を入れて歌うのだった。

 

ある時、といってもたぶん90年代になってからだと思うが、この歌には原曲があってそれが『兵隊さんよありがたう』という軍歌だということを知った。

 

うまいうまいと思って食べていたものを「じつはそれって△△なんだぜ」と言われて吐き出したくなるような、そんな気分になったことを覚えている。

 

<

 

さまざまなジャンルで固有の仕事として戦争に積極的に加担した人々がいた。そこには画家も音楽家も文学者や脚本家もいたが、「戦後」という「新しい」時代にあって、その人なりの「けじめ」をつけた人もいれば、知らん顔を決め込んだ人、さらには戦中そのままに生き延びた人もいた。

戦争責任という問題は、政治の問題であることはもちろんだが、文化の問題であるし、それはときに政治より重いこともあるのではないか。

 

替え歌や一部削除の歌が営々と歌いが継がれてきたことに、文部行政など政治的なものはもちろんあるが、拒否することなく歌ってきた民衆にも、戦争責任というものはないのだろうか。

児童読み物作家の山中恒さんが、もっとも身近で戦争責任をとらなかったのは教員だと云っているが、学校の場で子どもたちに対して教員が果たしてきた戦争遂行の責任は大きい。戦後のどさくさの中で民主主義教育の担い手に手品師のようにすり替わったその体の動かし方は、信時潔よりさらに無節操なものだったのかもしれない。

 

こう考えると、戦前戦中と戦後のあいだには、なにか決定的な違いなどないのではないかと思えてしまう。あるのは、よほどのことがあっても災禍を日々の日常に吸収してしまう、そして責任をうやむやにしてしまう、日本人の無節操な心性なのではないか。

 

また、本題に入り損ねた。

次回はかならず。