44年前、1976年1月の出来事。

昨日14日、今年初めての授業。

残すところあと1回。15回ワンセットが終わる。

 

授業用のプリントを毎回つくる。内容は毎回、

 

・新聞記事や資料を読んで感想をまとめる。

・その日の授業の流れ

・今週の映画、と本

・次週の予告

 

ぐらいなものだが、冒頭、「この1週間、なにがトレンドだった?」

 

話題を募りながら、余談を繰り広げる。

 

 

授業に試験範囲も何もないから

「先生、よけいな話はいいですから、授業を進めてください!」

なんてことは云われないが、その日やろうとしていることが多いときは、よけいな話をしている余裕がなくてはしょることもある。そんな時はメモのような適当な文章を載せる。

 

読むかどうかは分からないが、44年前、つまり今の学生のこの時期、卒業前2か月の頃の話だ。

 

ふりかえってみると、なんと牧歌的な時代だったのかと思う。

 

 

 

新年あけましておめでとうございます。
どんな年明けを迎えましたか?
2020年は、皆さんにとって大きなエポックとなる年、新たな出発の年ですね。大学に残って院生となる人もいるでしょうが、多くの人は学生から社会人となる過渡期、これからの人生で何度となく過去を振り返るとき、ひとつのターニングポイントの年として記憶される、そんな年です。


私の大学卒業は、大昔の1976年。人生は不思議なめぐりあわせで決まるものだと、振り返るごとに何度も考えさせられた、そんな年でした。このころはがきが20円。電車の初乗り料金が30円。すぐに60円になりましたが…。

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 卒業間近の1月半ば、ちょうど今頃ですね。バイトにもいかず、部屋でごろごろしていた私のところに、アパートの大家さん、なかなか気の強いおばあさんでしたが「赤田さん、電話ですよ」と息を弾ませながらやってきました。もちろんそのころスマホなどなく、中古のクルマをもっている学生は居ても、家電をもっている学生は皆無でした。
 

 電話の相手は、横浜の中学の校長先生。私の名前を確認したあと、校長先生はおもむろに
「赤田さん、来年から私のところで働いてもらうことになりました。ついては一度お会いしたいので、明日にでもこちらに来てくれませんか」と言うのです。
 当時の横浜の教員採用のシステムは、採用試験の二次試験に合格し、健康診断を済ませて年を越すと、こうして校長先生が直接学生に連絡を取り、面接をして採用が決まるというものでした。今と違って早い人は1月半ばには赴任校まで決まっていたのです。
 

 私は福島の高校の採用試験は今で云えば思い出受験。一次で不合格。埼玉の高校の採用試験はかろうじて受かっていましたが、声がかかったのは横浜が先。というより、結局、埼玉からは連絡がなかったので、採用の声をかけてくれたのは横浜だけということになるのですが。


 私は湧き上がる嬉しさに居酒屋のバイトではありませんが、「喜んで!」と答えたものです。貧しい学生活を送ってきたので「これで毎月そこそこの給料がもらえる」ことが嬉しかったのです。子どもたちのことや教育のことなど、全く念頭にはありませんでした。

 

 ところが、当時から世間知らずというか融通が利かないというか、どんくさい性格だったもので、大した考えもなく「なるべく早く」という校長先生に「バイトの日程が入っているのですぐには行けません。来週になら行けると思います」と答えていました。

 校長先生、ちょっと言いよどんで「あ、そうですか。はい、分かりました。それでは待ってますから」と電話を切りました。
 

 その夜、同じアパートの同級生や後輩たちが祝宴を開いてくれました。それはもう思い切り呑みました。なんと言っても、これでようやく念願の就職が決定。4月から晴れて横浜の教員となれる。社会人一年生だあ・・・なんて。


 二日酔いのアタマでアパートの外のベンチでぼーっとしていた次の日の午前中10時ごろ、再び大家のおばあさんがやってきました。きのうの校長先生からですよ、という。
 

 受話器の向こうから聞こえてきた校長先生の声は昨日と同じ穏やかなものだったのですが、その内容は私の二日酔いのアタマを無残に叩きのめし、奈落の底まで落下させるものでした。


 「赤田さん、すぐに来れないということだったので、他の人の話が来てしまってね。さっき面接をして、その人に決めてしまったんですよ。悪いが昨日の話はなかったことにしてください」
 昨日、電話で、会いに行くことは約束したけれど、「採用」まで約束されたわけではない。採用という言葉は出たけれど単なる口約束。文句など云う筋合いのものではない。今朝朝一番で面接に行った人がいるのだ。なぜそれが彼であって私ではないのだ?


 悄然と電話を切ると、目の前広がっていたバラ色の教員人生は一気に雲散霧消。私は卒業式を前に、卒業後は無職の道を歩むことになってしまいました。校長先生は、電話の切り際に気の毒がって「臨任(臨時的任用職員)の仕事はいくらでもあるから横浜に出てくるといい。その時は必ず連絡してくださいね」と言ってくれました。


 曲がりなりにも卒論(ほんとうに曲がりなりにも、だ。何しろ二日徹夜して100枚の原稿用紙を埋めただけのものだった)提出し、単位も取りきっていました(かなり後輩の世話になった)。

 

そうか、臨任か、どっちにしても引っ越しだななどと考えながら、私がいちばん思い悩んでいたのは、アパートのみんなになって言えばいいだろう、ということでした。いやいやアパートのみんなこそ、どう反応していいいか分からなかったと思います。


 卒業式も終わり(出席した記憶はありません。いつものようにアパートでごろごろしていたのではないでしょうか)、そろそろ引っ越しの準備を始めなければと考えていたころ、三たび大家のおばあさんが電話の取次ぎにやってきました。なんとまたまたあの校長先生だという。


 「赤田さん、いまね、職員旅行で河口湖の近くまで来ているんだ。君、もし時間があるならそっちに行ってもいいだろうか」


 横浜の校長先生が、会ったこともない学生のアパートに来るというのです。もちろん二つ返事。お待ちしていますと電話を切って1時間後ぐらい経ったころ、白髪をきれいに撫で上げた上品そうな初老の校長先生が、貧相な学生アパートのドアを叩きました。
 

 ほんの30分ぐらい、いろいろな話をしました。本とステレオ、わずかなレコード以外は何もない部屋に、いつもは見かけないきれいな座布団やお茶の道具がありました。話を聞いた後輩たちが、部屋を整えてくれていたのでした。赤田さん、こんな本まずいんじゃないの?といろいろな本もちゃんと隠してくれました。

 

 

校長先生は腰を上げながら、


「赤田さん、前にも言ったけれど、ぜひ横浜に出て来なさい。仕事は何とでもなるから」


ありがたいなあと思いながら、どうしてこんなことに?という思いがアタマを離れませんでした。だって、横浜の校長先生がわざわざ、どこの馬の骨とも知らない学生を訪ねてくるというのは、何とも腑に落ちない。狐につままれたような心持ちでした。


 その意味が分かったのは、次の日の4回目の電話ででした。大家のおばあさん「まただよ、校長先生づら?まったく何のようがあるだか」と少し怒っていましたが、電話に出ると、静かな校長先生の声が聞こえてきました。その中身は信じtられないようなものでした。


 「赤田さん、また国語に欠員が出てね。昨日、君に会ってどんな人かよく分かったから、君を採用することにしたよ。面接は君の部屋でやったということで。あとはとにかく引っ越してきなさい」。


 ふたたび私は横浜の教員となることになったのでした。

 3月半ば、桜にはまだ早い甲州の早春のことでした。


 面接で訪れたその中学校は、学年14クラスのマンモス中学。超過勤務問題も働き方改革もない、ただただ校則でがんじがらめの管理的な学校。若き給料ドロボーをめざしていたのに、私はいつしか反抗的な?教員になっていきました。

ここで10年間を過ごし、日教組を脱退し、独立組合に加入。結婚もし、二人の子どもも産まれた。私にとっては、人生の大きな変化をもたらしてくれたそんな職場でした。

 

人生は不思議なめぐりあわせで決まるものだと冒頭に書きました。今、振り返ると、あの穏やかな校長先生が私の人生を決めてくれたとも云えます。

 

もう泉下の人となって久しいですが、校長先生「君に会ってどんな人かよく分かったから」なんて云って私を採用して、実は後悔していたんじゃないだろうか。いやいや「あいつは変なヤツだけど、学校にはそんな人もいていいんじゃないか?」なんて思っていてくれたら、私はうれしいんだけど。