12月23日、ここへ転居してちょうど10年目の記念日。
横浜には4か所住んだ。
初めて住んだのは、旭区鶴ヶ峰。76年3月、校長面接のあとに駅前の不動産屋で決めたアパート。風呂なし・水洗トイレなし。1DK。
駅から徒歩10分ほど。3分のところに銭湯があった。ここに2年。
結婚して、というより住むところが決まったので結婚したのだが、泉区の立場(たてば)。最寄駅は相鉄線のいずみ野駅。歩くと30分かかった。当時は横浜でも不便この上ない場所。78年のこと。
現在は地下鉄が通り、今では便利な場所に。
3DKの庭付きの一軒家。ナスやカボチャを収穫した。となりのおばあさんがよくおかずを届けてくれた。ここに2年。
長女が生まれ、義母と同居して半年後、港北区菊名の中古マンションへ移った。10数年の同居で二人の孫を育ててもらった。80年のこと。
独立組合の組合員には「ろうきん」は住宅資金を貸してはくれず、たくわえのない若い夫婦は、銀行から高金利のお金を借りるしかなかった。金利は8%を超えていた。
東横線菊名から歩いて7分ほどだが、高低差50㍍以上ある坂の上。キッチンの窓の下には新幹線が通るのが見え、遠くには南アルプスの北岳が。もちろん富士山もよく見えたのだが、数年後、新横浜に高層のビルが建ち、見えなくなった。富士通のビルだった。
酔って帰ると、急坂は上るのが辛かった。
義母は、この急坂を孫の幼稚園への送り迎えや用足しに、一日に何度も往復していた。
ここに29年と9か月住んだ。子どもたちにとっては生まれ故郷のようなところ。義母は次女が中学に入ったころ、義兄のところへ移る。
4度目の転居は突然だった。
義母を引き取ることを決めたのがその4年前。Mさんは小学校教員を退職。介護に専念することに。すでに社会人となっていた長女は社宅に入っており、この年、大学を卒業する次女にもそれを勧めた。二人の就職には親は薄氷を踏む思いだった・・・というの就職氷河期にかけたレトリックで。とりあえず自立して働いてくれればというのが親の願い。
大人3人の生活が始まった。しかし、親子4人の生活よりも、認知症の義母との3人の生活の方が「スペース」が必要だった。
同居が始まって4年目のころ。「スペース」というのは物理的な広さや音だけでなく、精神的なものも含む。認知症の義母が占有する「スペース」が広くなり、3人の生活では手狭になっていく。
トイレが2つあるマンション、出来れば1階。不便でも今より「スペース」が広いところ。
それで探したのが、瀬谷区五貫目町。「温泉」の意味の英語を名前に冠した珍しいマンション。スペースは広くなったが、もちろん中古マンションである。
デイケアの施設が敷地内にある。今までのように送迎の際のもろもろの面倒が減る。
1階の部屋から階段もエレベータも使わずに、さまざまな植栽を眺めながらMさんと二人でゆっくりと歩いていける。
以来今日でちょうど10年。
義母はここに移って6年目に亡くなった。私の退職の10か月後だった。
介護もかなり厳しくなったころ、近くの特別養護老人ホームに空きがあり、入所。
1か月後、倒れた。
入院、闘病生活2か月。享年88歳。
義母はよく歌をうたう人だった。「会津磐梯山」が得意だった。
眠れない夜は♬あ~さはどこから来るかしら♬とうたっていた。
同居しているときは一緒の部屋で寝起きし、入所、入院してからは毎日歩いて顔を見に行ったMさんは、特養でも病院でも義母とよく歌をうたっていた。親子はよく似るものだ。
10年ひと昔というが、いつしか2人の子どもは結婚し、それぞれ2人の子どもをもうけた。
私たちも別れることなく、40年以上の時間を過ごしてきた。
これがまあ終の棲み家か雪五尺 一茶
「これがまあ」には、雪深いところに住むことへのあきらめ顔だけでなく、親類縁者との遺産をめぐる諍いへの深い嘆息が込められられていると言われるが、俯かずにどこか空を見上げて含み笑いをしているような、上品なユーモアが感じられる。
この時代、夫婦が、ふたりとも自宅で人生を全うできるとはかぎらない。いや、可能性としてはかなり低いのだろう。
生死は別としてここはいずれは出ていく場所。
そんなところだから、「これがまあ」と万感を込めて声に出してみる10年目の冬である。
高校の時の同級生、S君と新百合ヶ丘出会う。
映画や演劇、そして日々の生活について。赤ワインを飲みながら。
帰途、中央林間からタクシー。
『最近、狭い道でも「早くしろよ」なんていうお客さんが増えました。昔はそんなことなかったんですけどねぇ』
と初老の運転手さん。不寛容という言葉が浮かぶ。