セアート勧告を学生はどう受け止めたか③

・公務員ならば,日の丸・君が代を次の世代に伝承していく人として自分が嫌だから反対するのは違うと思いました。自分自身の宗教観を児童生徒に押し付けないというようなきまりがあったと思いますが,この問題はそこに当てはまると思います。日の丸・君が代は日本の仏教的な部分が含まれているモノ,歌だと思います。そこを嫌がって反対するのは未来の日本を担う子どもたちを育てる教師としての立場ではおかしいなと思いました。住んでいる国の文化を受け入れる大事なことだと思います。私もフィリピンに住んでいた際式典の時にはフィリピンの国歌を歌っていました。自分の宗教を大事にするのは大切ですが,柔軟に受け入れるのも重要なことだと思います。( C )

➡この記事では,児童生徒に歌わせないという問題でないことははっきりしています。教員に対して強制し,従わなければ処分をするというやり方に対して,ILOユネスコという国連機関が,どうしたかたちで解決していくべきかという検討をした報告書を取り上げています。出来れば,その報告書の中身を批判的に検討してもらえればよかったなと思いました。それから,日の丸・君が代は,明治維新政府が,天皇親政を進めるべく明治天皇の命令で靖国神社がつくられ,国家神道(国の宗教が神道でした)として神社を保護する傍ら,廃仏毀釈として寺社を粗末に扱ったその象徴のようなものです。今でも神社に行くと日の丸が飾られているのはそういう意味があるからです。

 

・私はボースカウトをやっています。キリスト教会が出資している団なので,キリスト教寄りな教育をされます。ボーイスカウトの制服には日の丸がついていますが,「外すように」と指示があります。国旗に対する敬礼のみでなく,掲揚といった基本動作も禁じています。正直キリスト教でない私にはつらい環境です。何かを「しろ」「するな」の2択で他人に迫ると,多様化の進んだ今の世の中,対立が深まると思います。他人に迷惑のかからないことは咎めずお互いにやさしい気持ちで他人に向き合う必要があると思います

➡あなたの主張は「寛容」という言葉で表せると思います。キリスト教を信じる人もいれば(キリスト教には様々な宗派があります),そうでない宗教を信じる人もいます。どんな宗教であっても,それが暴力で政治体制を毀損するようなものでない限り尊重されなければなりません。たとえ,教員が自らの思想信条に立って「歌わない」としても,それを児童,生徒に押し付けるのは,いちばん忌み嫌う強制を自らやってしまうことになります。学校という子どもたちが育つ場でこそ,あなたが言うような寛容さが求められていると思います。

 

・正直私には,なぜ国旗掲揚や国歌斉唱に加わりたくないと思うのかが理解できません。日本のことがきらい,

日本に対してうらみがあるのならわかりますけれど。私としては国旗掲揚や国歌斉唱は当然やるものだと思っていましたし,それに対して疑問を抱いたことはありませんでした。ただ,人それぞれいろいろな事情はあると思うので,強制が嫌な人に無理をさせるのもよくないと思います。( T )

➡自分が所属する団体,たとえばあなたにとっては「日本大学」。あなたは自ら好んで日大に進学したのだから,日大の校歌をしっかり歌いなさい,日大を愛しているのなら歌うのは当然でしょう?と言われたらどうしますか。はい,無条件に歌います,という人もいるかもしれません。いやいや,4年間通った日大は好きだし,友達も大事だと思う。日大がなければ彼らには出会うことがなかったのだから,日大には感謝もしている。でも,だからといって日大の校歌を無理やり歌わせられるのには抵抗がある。歌う,歌わないは自分が決めることで他から強制されることではないから,という人もいるかもしれませんね。そんなふうに考えると,自分が所属している団体,会社でも学校でもいいのですが,私たちは普段にそこが自分にとってどういう存在かを考え続けてることが大事です。

・記事の内容が少し難しくてあまり理解ができませんでした。入学式や卒業式の国旗掲揚,国歌斉唱に加わりたくない教員について,私は,一つの式として生徒にも行わせていることなので参加すべきなのではないかと思います。( M )

➡この教員たちは,児童・生徒には歌を歌わせておいて自分たちだけは歌いたくないといっているわけではないようです。児童・生徒たちにも歌う,歌わないの自由が保障されるべきだと考えているようです。現場ではいろいろな対応があってひとことでは言えないのですが,少なくとも文部科学省は児童・生徒に対する姿勢としては上に書いたことを守るべきと考えているようです。問題は教員です。公務員である教員は,憲法で保障されるべき思想信条の自由が,一定程度せばめられてもいいのかどうか,という問題です。静かに不起立,斉唱せずという行為をとることの是非が問われています。ILOユネスコの合同委員会の考えと文部科学省の考えが違っているということ,そして,私たちはどういう立場をとるのか,ということですね。

 

・どうにも。第一に思ったのはナゼ君が代を歌いたくないのかが書かれて居なく,渡辺氏の心理がよく分からない。ゆえにあまり共感できない。極私的意見を述べると強制されぬ自由はあった方が良いと思うが,渡辺氏も国家公務員なのだから国歌くらい割り切って歌えばよいと思う。どうやら,国歌や日の丸からなる共同体に何か特別なものがあると思う込む人が多いらしい。(インディカ種)

➡学校で国旗掲揚,国歌斉唱を積極的にやるように文科省(当時は文部省)が指示をしたのは,1989年だったと思います。それまでは,日の丸は壇上にあったかもしれませんが,君が代を斉唱するところは,全国的に少なかったと思います。だからこその指示だったのですが。私が勤務した二つ目の学校は,まだ漁師さんたちがいる横浜の海辺の街の学校でしたが,ここでは日の丸も君が代もなく,壇上には校長先生が式で話をするテーマが掲げられていました。校長先生の最後の授業というのが,卒業式式辞の位置づけでした。あれから30年が経って,今では式で君が代を歌うことが当たり前になってきました。みなさんもその中で歌ってきたと思います。つまりどちらも既存のものとして受け入れているのですね。日本人だから掲揚して歌うのが当然,というのはその中でつくられてきた「思考停止」ではないでしょうか。

 

・日本国民だから日の丸君が代がマストである考えはたしかにおかしいと思いました。しかし,日本の国旗・国歌として国が決めた以上は,入学式,卒業式などの行事で歌うのは仕方がないと私は思います。私は性格がひん曲がっているので,歌うのが嫌なら口パクでもいいと思いますし,大人なのですから,何かをするふりを見せても良いのではないかなと思いました。政府も強制したくてしているのではなく,強制せざるを得ない状況なのかともっと柔軟に考えても良いと思います。

➡口パクややったふりは,こと思想信条の自由ということの繊細さにおいては「ごまかし」だと思います。

  うたわない教員の心情はなかなか理解できないと思いますが,処分されるということは生活にもかかわることですし,退職して再任用の教員として働こうとしても,不起立者は採用しないといったこともありました。世界の人権をめぐる状況の中では,日本のこうした処分を背景に歌を強制するというやり方はかなり遅れた方であるということから,渡辺さんたちはILOユネスコに自費で訴えに行ったようです。私の知っている限りにおいては,ILOユネスコも命さえ奪われかねない弾圧を受けている国々人達に対して救済の手を差し伸べることはあっても,先進国と言われる日本の教員の「うた」について報告を出してくれるとは思っていませんでした。そのぐらい,この報告書は稀有なものだし,そのぐらい日本の「うた」に関する常識は国際社会の中では通じにくくなっているのだと思いました。

  細かないくつもの事実をしっかり把握すること,それを思い込みをせずにしっかり検討してみること。そのうえで自分の「考え」とは何なのかを見極めてほしいなと思います。