セアート勧告の問題を学生はどう受け止めたか②

『国際機関の勧告を受け,元教諭ら政府に実施を求める会発足へ』(東京新聞11月4日付)の記事を読んで考えたこと

                  2019年11月26日の「振り返り」から

 ➡は赤田のコメント

・そもそもなぜこのアイムの人達は君が代を歌いたくなかったのか知らないといけないと考えた。前提として,私は公務員だからとは言っても歌わなくても良いと考えているが,理由なく歌わないというのもいかがなものかと思ったので,記事に書いていない理由が知りたい。合同委は別に強制する気ではないように思えるが,なぜ文科省はそこまでこだわるのか分からない。指導をすることができれば,命令にそむいていないのではないかと考える。(すげっち)

➡理由を知りたいという気持ち,わかります。彼らに理由はしっかりとあるし,聞けば話してくれると思いますが,理由を明かしたくない人もいます。それが「内心の自由」ですね。どんな理由であれ「表明しない自由」があるということです。

 

・私がこの記事を読んでひとつ思い出したのは,大阪市の市教委の中西教育長が教職員に対して国家の起立斉唱命令を出したことについて,橋本市長が見解を述べた会見だ。この時の橋下市長は,起立斉唱命令は重いのではないかという問いに対して,「公務員だから当然だ。」と一蹴した。強い口ぶりで悪印象を受けがちだが,私はこの意見に賛成だ。市に所属する地方公務員だとしても,国に所属しているということには変わりないのだから,公務員である以上,ある程度強制されても仕方ないのではないかと思った。                                    (FRISK

大阪府ではこの時期に,府立和泉高校(岸和田市)の校長が,教職員が君が代をちゃんと歌っているかどうか,教頭に対して教職員の口元を目視で確認するよう命じたということがありました。橋下市長は,「当然だ」として校長のやり方を支持しました。そこまでして歌わせなければならないと考えるのはなぜでしょうか。公務員という立場ではあっても,憲法に保障された思想良心の自由,表現の自由は保障される必要があるのではないでしょうか。日本の場合,欧米に比べて公務員の権利が極端に抑制されているという問題もあります。国歌国旗法が制定されたとき,ときの総理大臣は次のように答えています。

 

学校におきまして,学習指導要領に基づき,国旗・国歌について児童生徒を指導すべき責務を負っており,学校におけるこのような国旗・国歌の指導は,国民として必要な基礎的,基本的な内容を身につけることを目的として行われておるものでありまして,子供たちの良心の自由を制約しようというものでないと考えております。 国旗及び国歌の強制についてお尋ねがありましたが,政府といたしましては,国旗・国歌の法制化に当たり,国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって,現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております。(小渕総理99年6月29日)

 

また当時の矢野重典文部省教育助成局長は同じ99年8月の参議院特別委員会で次のように述べている。

 

「教職員が国旗・国歌の指導に矛盾を感じ,思想・良心の自由を理由に指導を拒否することまでは保障されていない。公務員の身分を持つ以上,適切に執行する必要がある」

 

それぞれ自分の立場から考えを述べたものですが,この段階でこうした議論をしなければならないほど,この問題は微妙な部分を含んでいたということです。それが10年以上を経て,教職員の口元確認まで行ってしまった。ちなみに,私は教員経験38年間で,そのうち国家国旗法が制定されてからは20年ですが,一度も指導もしたことはありませんし,卒業式などでは一度も起立しておらず,歌いもしていません。当該学年(3年)のときは管理職のとなり(学年主任だったので)で不起立。なぜか,注意も受けたこともありませんし,処分ももちろんされていません。それでいいのですか?と言われそうですが,私なりの考えがあってやってきたことです。その考えを少しずつ述べていきますね。

 

・「君が代」という歌は,日本国民全員にとって特別な歌だ。日本人が日本人であることに誇りを持って歌うものに対して,このような問題が起こって悲しい。教員はよく学校の朝会等で校歌を生徒に歌わせるときに,大きな声で歌うようにと促している。その一方で歌いたくないという教員もいる。宗教的な考えのようになってしまうが,日本人である以上,国歌が流れてうたわなければならない状況であるならば,歌わなければならないと思うし,ポジティブな考えをもつべきだと思う。それでも歌いたくないのであれば,生徒の見本になれていないので,考えを改めるべきだ。(クマ)

➡私は見本になれていなかったようですね。生徒に対して校歌を無理やり歌わせることも問題だと私は思います。歌いたくない校歌もあります。かつて,学校側がブラック校則を押しつけるのに対して,生徒の一部が校歌の「♬良き師良き友良き教え♬」という部分を歌うのを拒否したことがありました。私は彼らを支持しました。彼らにも表現の自由があると思ったからです。

日本人である,ということと日本という国家に忠誠を誓うこととは別物です。近代の国民国家は市民自らが国籍を選択できるのですが,そのときに「宣誓」などしません。何人であっても日本人になれるし,自分のルーツを大切にしたいと考える人が君が代はうたいたくないと考えることもあるかもしれません。学校の中にはさまざまなルーツや宗教をもった生徒がいます。その生徒たちが日本人である場合もあればそうでない場合もあります。学校は最大限そういう人たちの権利や思想を守っていかなければならない場所です。郷に入れば郷に従えという発想は,そうした少数の人たちにとっては暴力的と思われる可能性はないでしょうか。

 

・式典等の国旗掲揚,国歌斉唱を教職員に求め,これに応じない者への処分はずいぶんと話題になった(特に東京圏で)。と記憶している。この問題については,特に国歌斉唱に関して毎度思わされてきたことがある。それは歌うことと愛国心が本当に結びついているのか,ということである。歌うことで思想の自由が侵害されるというのなら,それは行為と思想をあまりにも連動させすぎているように考えられる。形だけでも歌ってやる,ということさえ難しいのだろうか。(たくみ)

➡処分が激しくなってからはそういうかたちで妥協する人たちもたくさんいたと思います。でも,形だけやらせることができても人の気持ちまでは変えられない。

 

・国旗の掲揚,国歌の斉唱に関する問題が教員採用試験で出ていたことを思い出した。試験勉強をしていた際にも国旗掲揚と国歌斉唱が学習指導要領に書かれていたことに違和感を覚えた。近年の学校は様々な国籍の生徒が増えたりしている中で,何故強制する必要があるのかと思う。また文科省や国もどうでもいいと考えていることがこの記事を読んで伝わる。国や文科省はそんなことよりも対応しなければいけないことがあると考えているのだろう。最近の政府をはっきりと表しているのではないかと思った。(パンダ)

ILOユネスコの合同委員会の報告書は「規則は国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるものとする」「消極的混乱をもたらさない不服従の行為への懲罰を避ける目的で,懲戒について教員団体と対話する機会を設ける」など,個人的には穏当な報告だと思います。私などがやってきたのも消極的不服従で,周りに呼び掛けたり,指揮を混乱させるなどしたことがありません。「静かに坐っている」だけです。理由は,私は戦後に生まれましたが,戦前戦中に君が代が歴史的に果たした役割に対して,私自身「否」という気持ちがあるからです。他の人が歌うことに対して何か意見を言うつもりはありません。生徒も同様です。

 

・「お国のために」という考え方がなくなり,思想の自由が認められている現代において,国旗掲揚や国歌斉唱に加わりたくない人に強制することの必要性がわかりません。「公務員だから」と言われても「だから?」としか思いません。国際的な変化に日本がついていこうとせず,型にはまった教育をしているから優秀な人材が生まれにくいのではないかと考えます。(カオナシ

➡国歌を歌いたい人もたくさんいます。大好きだという人もたくさんいるでしょう。それはそれでいいのですが,日本人だから歌うべきとか,日本人のくせにどうして歌わないのかという発想は狭いのではないかと思います。つまり「日本人」という概念がひとによってかなり異なるものがあり,判然としないことがよくあるからです。「日本的」という概念も同様です。狭い国土と言いながら,日本は世界的に見て特に狭いというわけではなく(200ほどの国のうち日本は61番目の広さです),文化や習俗の違いは土地土地によってかなり違います。「これが日本だ」と思っていても,違う土地のひとからすれば「?」ということも多いもの。そうした違いをなくして国家としての「日本」を築こうとしたのが日本の近代の始まり。そこに大きな齟齬が生まれるのは当然のこと。齟齬がありながら,日本は大きな戦争をいくつも経験します。その時の国民統合の象徴のようなものが必要となります。だれにとって「統合」が必要だったのか,考えてみることも重要だと思います。

 

・私はこの話の前提部分かもしれないが,そもそもなぜ国歌を歌わなければいけないのかも,なぜ歌いたくないという人がいるのかもあまりよく分からないです。スポーツ選手など,国を代表して闘う人々に関しては,代表として選ばれたことに誇りを持つためにということで必要なことはわかります。しかし,私たち一般の人々が歌うことで何になるかはわかりません。だからといって歌わない歌いたくないというのは,よほど何か恨みでも持っているのかと思います。教員に関しては,他の立場の方が法で拘束力がないのであれば,同じように対応すればいいのではないかと考えるが,正直どちらでも良いと思います。(I.S)

アメリカではスポーツ選手が,自分の思想信条を表明するために国歌斉唱時に起立しなかったり,歌わなかったりすることがあります。もちろんそうした行為に対して激しい反発もありますが,一方で「民主主義というのはそういう自由があるということだ」というオバマ大統領のような考え方もあります。反対意見を述べる権利,国家に対して否定的な意見を述べる権利が国民にはあるということですね。

  寺山修司という詩人に次のような歌があります。

      マッチ擦るつかの間の海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや

                       (1957年『われに五月を』から「祖国喪失」の中の一首)

 国家は崇めるものではなく,常に批判にさらされることで健全さを生んでいくのではないか,と私は考えています。

 

・そもそも何で歌いたくないのだろう。その理由が書いていないしわからない。独立を目指しているところならいざ知らず,その他の国は基本的に国歌を歌うし,よく分からない。学校教育の中には愛国心を育てるというものが含まれていると思う。そして自分の育った国なので,それは持っててほしいし,それを育てる教育をすべきだと思う。となりの韓国だって記念日は家で国旗掲揚をしているし,別にいいのでは?愛国というと右派だとかいうが,右派も左派も日本を愛したうえでよりよくなるため変えていくのか,そのまま行くのかの差だと思う。愛がないのは反日というものなのでは?そういうところが日本がゆがんでいるところだと思う。(沈黙の戦艦

➡住んでいるからと言って無前提に国を愛するというふうにはならないのではないでしょうか。愛すべき国であってほしいけれど,国もまた人と同じように過ちを犯すもの。過ちを犯さないような政治をしてもらう,するためには,上に書きましたが,崇めるのではなく常に批判にさらされることが必要なのでは。祝日に国旗掲揚をする家は日本では極端に少ないのはなぜでしょうか。強制というのは,となり近所で声を掛け合って「国旗を掲げましょう」というやりかた,どの市町村の掲揚率は○○%なんてふうになっていったらおかしな話ですね。でも,学校では儀式等ではかならず国歌斉唱と国旗掲揚をやりなさいという。それでいてほぼ100%実施されていながら,家庭の掲揚率は上がらない,これをどう見ればいいのでしょうか。国歌国旗に関しては,日本は独得の歴史を刻んできたことも忘れてはいけないと思います。その過程で国に対して「愛」をもてない状態になってしまった人や,自分なりの思想信条として「愛」がもてない人もいるかもしれない。そういう人もいていいのではないでしょうか。