そこに萩生田大臣がナイスアシスト、というかオウンゴール。 愛知トリエンナーレや教員の働き方改革など「自分の色」を出そうとして、つい口が滑り、ホンネと中身のなさを自ら晒してしまった。 「私の発言が見送りの原因になったわけではない」といえば言うほど、原因でしたと云っているようだ。

2020年度に実施さることになっていた大学入学共通テストの英語の民間試験活用が見送りになった。

 

なんとも簡単に動くものだ。

 

萩生田文科大臣が自分で決めたと云っている。ありえない。

 

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こういうのを一般的には”政治的判断”という。

前後の事情の理非曲直を判断してということではなく、政治情勢を最優先に判断をすることだ。

 

今回はとってもわかりやすい。

 

すでに新閣僚が、経産省、法相と立て続けに辞任している中で、政権はこれ以上傷を深くしたくないということから、「火消し」に走ったということだろう。

 

「萩生田はなんとしても辞めさせない」と首相が云ったかどうかはわからないが、太鼓持ちというか茶坊主というか、この人を辞めさせれば政権自体が危機的状況に陥るとの判断をしたのだろう。

 

問題が多い政策なのだから、延期を歓迎する向きは多い。しかし、逆に「やるというから準備をしてきた」人たちは、納得できないだろう。

グラグラしているのに「大丈夫、大丈夫」と云ってきた政権と官僚の杜撰さがこうした混乱を生む。

 

学力をめぐる有名な発言に2000年の三浦朱門(作家・教育課程審議会会長)のものがある。

 

『平均学力なんて低い方がいい。日本が平均学力を高水準に保ったのはできもしない落ちこぼれの尻を叩いた結果だ。その結果全体の底上げは出来たが、落ちこぼれの手間ひまをかけたせいでエリートが育たなかった。だから日本はこんな体たらくなんだ。したがってこれからは、限りなく出来ない非才無才は勉強などできんままで結構。勉強な
どせず実直な精神だけ養ってもらいたい。落ちこぼれに金と労働力をつぎ込まず、効率よくエリートさえ育てばいい』

 

こういう発想が、自民党の政権時には時々顔を出す。今回の萩生田大臣の発言も延長線上にある。

 

両方ともあまりにストレートで味わいがないというか何というか。

 

競争と自己責任?日本を引っ張るエリートづくり、新自由主義

 

民間試験の導入は、いくらなんでも乱暴。

机上で考えて強引に実施しようとした政権と官僚に対して、すでに大手のTOEICは撤退を7月に決めていた。

 

混迷状況の中にあえて手を突っ込まなくてもという冷静な判断。この時点で多くの関係者には「やばいな」という感じはあったはず。私も新聞を読んでそう思った。でも「やる」と強弁してきた。

 

そこに萩生田大臣がナイスアシスト、というかオウンゴール

愛知トリエンナーレや教員の働き方改革など「自分の色」を出そうとして、つい口が滑り、ホンネと中身のなさを自ら晒してしまった。

 

「私の発言が見送りの原因になったわけではない」といえば言うほど、原因でしたと云っているようだ。

 

一年で再案をなどと報道されているが、そんなに簡単にはいかないだろう。

 

野党はこの発表直後「民間試験断念に追い込んだ」と気勢を上げたという。「みんなで力を合わせれば、なんでもできる」と云ったのはだれだったか。逃げられたんじゃないの?

 

「私達の力によって追い込んだ、力を結集した結果だ!」

 

労働組合も政党もよくこういうけれど、なんだかなあと思う。

 

 

 

 

 

神戸の教員いじめ問題。世論に押されて市議会が4人の教員の給料を止めてしまったという。拙速以外の何物でもない。

 

当然だろう、どうしてそんな奴らの給料を払って休ませておくんだ、そのうち退職金までもらうようになるんじゃないかという多くの声?

 

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この理屈、おかしいと思う。神戸市には何人もの顧問弁護士がいるだろうに。

 

素人が考えても、これはおかしいと思う。

 

だって、まだ処分が出ていないんだよ。事情聴取から始まって処分決定までのフローというのは規則で決まっているわけで、それ以外に勝手に条例を改正して給料をとめるなんて、これは言語道断だろう。未決の被告はめしを食わなくてもいいってことか。ましてまだ彼らは被告でもなんでもない。

 

本人たちは療養休暇を取っているわけではなく、教育委員会は出勤命令をすればいだけ。学校に行かせるのが問題なら、教育センターのような他のところに出勤させればいい。そんな例はいくらでもある。

 

給料をもらって休んでいる状態をつくったのは、実は教育委員会。マスコミ対応は教育委員会の仕事だし。

 

いじめ問題は、当事者はもちろん傍観している人間がいじめの一角を担っているものだが、非常識極まりないどうしようもない教員をどうにもできなかった管理職、周囲の教員の責任は重いと思う。

 

いじめられた教員はとっても良い先生という報道だが、子どものいじめを何とかしなければいけない立場の教員が自分のいじめに声を上げられなかったのは問題。いずれもいずれもこの中のだれに社会性があるというのか。苦しいときに助けを求める、求められればそれに応える、最低限の職場のつながりがあれば・・・。

 

それができなかったほどひどいものだった・・・それほど4人の「しばり」がきつかったということだが、それも分からないではない。でも、ね。毎日、そういうシーンを見聞きしていれば寝覚めが悪いだろう。教室での自分の声に力が入らないこことだってあったんじゃないか。

 

ところで、テレビで謝っているのは校長か教育委員会の役人ばかり。本人たちは「反省文」を書いたあと沈黙。

 

このへんが韓国などと文化がちがうということか。

 

出てきて話をしなさいというのは、酷なことなのだろうか。給料を止めるよりもこっちのほうが大事だと、私は思うのだが。

 

それができないから「給料をもらっていじめをしていたのなら、給料などいらないだろ」となるのか。

教育委員会は世論に押されたというが、世間の不寛容の声ばかりが大きいのは仕方がない。ある意味無責任でもあるのだから。だからそれに乗っかって、条例改正までやってしまうのは変だよ。あまりに主体性がなさすぎるし、感情的すぎる。