佐野ラーメンとストライキ。消費者ばかりの日本。労働者はどこに?

日々の記憶は飛ぶように流れていってひとつところに留まってくれない。暑さのせいにしたいが、どちらかと云えば老化の影響が大きいようだ。

 

10日、久しぶりに卒業生のTに連絡。12日が彼の娘いぶきの命日。まる7年になる。存命ならば25歳の誕生日となる。

まだ遺骨は彼らの部屋にある。お参りをしたいがと云うと、奥さんのKさんのお姉さんが来ているから一緒に夕食をということに。このごきょうだいとも30年近い付き合いになる。

7年前、小児がんを長いこと患ったいぶきが逝った。産まれた時からの付き合いだ。

聡明で物おじしない子だった。壁をつくらずすっとふところに飛び込んでくるようなところがあった。

 

いつものようにいぶきの話。重なる18年の短い時間、重ならない7年の長い時間、残された近親者には、日々のすき間に顕われるまぼろしに心を動かされることしきり。時薬は他人にとっては効果抜群だが、近親者には偽薬にもならない。

 

また会いましょう、また来るね、と明るく別れるぐらいが、傍(はた)の人間のできること。

 

15日。広島の中澤さんから『炎のメモワール』の公式サイトを教えていただく。

広島二中の1年生321名とともに亡くなった山本信雄先生の妻、信子さんが1947年、アメリカの新聞に投稿するために英語で書かれた手記。新聞に掲載されることはなかったが、のちに娘さんの小野英子さんが日本語に訳された。

 

https://honoo-no-memoir.themedia.jp/

 

大変貴重な記録であると思った。

広島二中をめぐっての出来事は、『碑』などにも詳しいが、これもまた一つの「広島二中」の物語である。

 

16日。2019愛知トリエンナーレが迷走を続けている。

作者たちが次々に作品を取り下げている。実行委員会の人々も、トップダウンの展示取りやめに抗議をしている。

すさまじい勢いで組織的に行われたクレームの嵐。

「中止」してしまうことが、まさに「表現の不自由」を体現してしまうという皮肉な結果に。

 

「つぶしてやる」と考える人々の顔の見えない不気味さ。

 

「つぶされない」ためには、どうするか。方法は必ずある。

 

芸術が政治と無関係のところでのみ成立するものであるなら、芸術(表現)の価値などないに等しいと思う。

 

お盆のUターンラッシュ東北自動車道佐野ICで「異変が起きている」と昼のワイドショー。

 

サービスエリアの請負会社の社員がストライキをやっているため、レストラン、売店

機能してしてないというのだ。

 

女性のアナウンサーがさも深刻気に

「いったい、ここで何が起きているのでしょうか」。

司会がすかさず

 

ストライキでしょ?」

 

ここまでは良かった。

あとは、「佐野ラーメンを楽しみにしている方たちはがっかりしています」「下りのSAへ誘導されています。そちらでは食べられそうです」

「楽しみにして来たのに」「がっかりした」

インタビューに答える人たち。

なにゆえこのお盆の時期の就業拒否なのか。要求は何なのか。そういうことには一切触れずに、消費者の利便性が奪われていること、端的には佐野ラーメンが食べられないことが問題だとする報道にびっくりする。

 

ネットで見てみると、ストライキの原因は、劣悪な労働条件の改善を求める某管理職!を経営が解雇したしたことに対する抗議。労働条件の改善と解雇撤回がストの目的だという。

 

ワイドショーが取り上げて、みんなが「困った」状況になったのだから、ストライキは一定の効果があったということ。経営の方は解雇撤回も含めて解決にむけて動き始めているという。

 

それにしても「なんだかなあ」である。

 

日本には消費者はいるけれど、労働者はいないのかな。