昨日(1日)は早朝から、テレビはどこのチャンネルも元号一色。
NHKも「発表まであと〇時間ですね」などとやっている。
早朝に出てから深夜までの一泊二日、新幹線と高速バスに長時間揺られて会津を往復した身には、なんとも喧しいことこの上ない。
お昼にテレビのスイッチを入れると、テレ東の『昼めし旅』という番組。「あなたのご飯、見せてください」というやつだ。さすがテレ東、いつも些末なことには動ぜず娯楽に徹する姿勢、留飲を下げたのだが、その後ネットを見ると『昼めし旅』に喰い込んで報道番組を延長させたらしい。
テレ東も新元号には負けるのか
新元号は令和というらしい。万葉集の大伴旅人の文章からとったという。
これに対して中国の反応は、
「このことは日本の内政だ。私たちはコメントしない」(中国外務省 耿爽報道官)
木で鼻をくくるとはこのこと。中国らしい。それはそれでいいのではと思っていたら、少し経って
「新元号の出典が漢籍ではなく初めて日本古典となったことについて、中国紙の環球時報(電子版)は「中国の痕跡は消せない」の見出しで、引用元の「万葉集」も中国詩歌の影響を受けていると指摘。ネットユーザーの間では新元号のもともとの出典は後漢の文学者、張衡の韻文「帰田賦」だとの主張も目立った。」(産経新聞)
中国の人たちのなかには、黙っていられない人が多いのか。
トランプのアメリカファースト同様、中華思想からすれば小さな属国に過ぎない日本。所詮、文字も文化もみな我が国からの輸入品ではないか、えらそうにするなということだ。
韓国の左派系新聞ハンギョレは
「新元号の出典について「安倍晋三政権の保守的色が日本の古典を出典とする年号誕生の背景にあるようだ」との分析を掲載した。」という。
こちらは素直に日本の古典を出典とするということを認めたうえで、その保守的色を指摘。今の不安定な関係からすれば当然かもしれない。しかし欧米のマスコミの捉え方もこれに似ていて安倍政権のナショナリズム志向を指摘しているようだ。
菅官房長官に続く記者会見で、滔々と令和について話す安倍首相を夕方のニュースでみた。懸命に出典を暗唱して、smapの「世界にひとつだけの花」につなげて思いっ切りの我田引水、安倍首相でなくとも、このタイミングでこの談話、下品だなと思う。
憲法を持ち出すまでもなく、皇室の政治利用に抵触するのではないかとは毫も思わないのだ。逆にそのことを突きつけられれば、「新元号を寿ぐことのどこがいけない、私は首相という国の政治に責任を持つ立場から、率直な思いを述べたにすぎない。皆さんがツイッターなどでやっていることと同じ」などと早口で開き直りの口上をまくしたてるのだろう。率直だからいいとは言えない。率直さがかえって国の政治をゆがめることもあるのだ。
さて、元号を日本の古典に出典を求めるというのなら、漢字ではなく日本でつくられたひらがながいいのではないか。
ひらがなは漢字をもとにしたカタカナから出来たもの。カタカナも元のかたちが残っていて面白いけれど、戦時中に漢字と一緒に多用されたことを考えると、女文字と云われたひらがなの元号が良いのではないだろうか。それならば漢語ではなく和語が使える。
ひかり元年、ふるさと15年、いなづま30年、たんぽぽ3年、ほととぎす23年なんてどうだろうか。
西暦がいいと思っているわけではない。相対的に見て他国との比較や対照をするときには便利だと思うから使っている。長い間の性癖としてさまざまな書類に日にちを記入するとき、なるべく元号は使わないようにしてきた。
平成も後半になってようやく元号、西暦どちらでも標記できるように「 年」とする書類が増えてきた。改元を契機にまた元号使用が増えていくのかもしれない。
元号の制定は、制定する側の価値観に基づいて民衆の時間を支配しようとする行為だと私は思う。
沖縄大学の学長を務めた横浜の元小学校教員加藤彰彦さんが推奨していた元号「戦後」を考えれば頷ける。アジア太平洋戦争を最後の戦争とするべく、戦後74年の時間を非戦という概念で支配するということだ。
制定する側の価値観に基づいて「時間を支配」するという点でフェアな発想だと思う。
そう考えれば、元号はそれぞれ自分の価値観に基づいて自分で決めればいいということになる。その人(たち)にとって、忘れられない事象をもとに。
それは震災かもしれないし、地震かもしれないし飛行機事故、あるいは交通事故かもしれない。家族の死かもしれないし、ようやく念願かなって産まれ出た我が子かもしれない。新たな得恋までの失恋、相手の名前もいいだろう。
この元号、家族や友人だけが知っていさえすればいいし、だれにも知られなくてもいい。たった一人で新年を迎えた時、カレンダーの表紙に「○○何年」と記入する。
自分の時間は自分が支配する。だれかに支配されたくない。自分の人生は自分のものなのだから。