昨日の朝、大阪のMさんが亡くなったとのメールを、高槻のHさんからいただいた。
昨年の10月に茨木のご自宅にお見舞いに伺った。お酒はなかったが、いつものように気の置けない仲間たちとの談論風発。久しぶりに楽しい時間だった。
まさかこんなに早いお別れになるとは思わなかった。
Mさんは中学教員を40数年つとめた。
1989年、日教組が分裂した際、独立組合大阪教育合同労組を結成、初代執行委員長となり長く務めた。大阪教育合同は、週刊新潮をして「日本で最も過激な組合」と言わしめた混合組合。その12年前に独立した横校労ほか全国の少数の独立組合と気脈を通じるようになっていく。
その後、Mさんは教員の独立組合の連合体「全学労組」の代表を務めた。私は事務局長として長くコンビを組んだ。
Hさんから、Mさんのお連れ合い、Sさんからのメールを転送してもらったのは、ついこの間3日前のことだ。
そこには、あと1週間かあるいは10日ほど、とあった。
正直、動転した。
あのMさんが、死ぬのかと思った。私のよく知っているMさんが、がんとの闘いに負けるはずはないと思っていた。
それほど生きる力の横溢する人だった。
厳しい闘いではあるけれど、最後はMさんの勝利を信じていた。
しかし、おつれあいのメールには、見舞いは近親者のみで、とあった。
Mさんと出会って20数年になる。初めて親しくお話をしたのは、初めて文科省交渉に臨む会議の場だった。近づきがたい雰囲気をもった方だった。
その後、互いに一組織の代表、事務局長となって支え合うことなど、想像もしていなかった。
年回りは一回り近くも離れていたが、中学の現場の教員としての感覚は驚くほど似ていた。
呑めば若干言葉数が増えたが、ふだんは寡黙な方だった。
どこかでいつもつながっているという感覚、信頼している、されているという感覚があった。失礼かもしれないが、古い言葉で言えば「同志」という思いがあった。
私にとっては、Mさんはまた一つの新しい世界だった。
いずれにしろ、お別れは誰にでもいつかは訪れる。
あす、告別式。大阪はもちろん九州や静岡、埼玉、千葉、静岡、愛知から集まる仲間とともにしっかり見送ってあげたい。
Mさん、ありがとうございました。とってもいいお付き合いでした。
おかげで私の人生にも少し幅ができました。
いつかそちらでまた一献。
Mさん、横浜・野毛の萬里、夕暮れ時
「ビール、10本!」
の野太い声が聞こえそうです。