松本紘佳・佐藤卓史リサイタル ショスターコヴィチヴァイオリン協奏曲1番 二人の超絶技巧とたぐいまれな構成力


風邪が小康状態?だった日曜の3日、西国分寺の「三百年の古民家の温もり りとるぷれいミュージック・ハウスコンサートNO.204」につれあいと出かけた。

 

 閉所が苦手なため、なんとしても最前列の端っこの座席を確保すべく、開場20分前に到着。

 先客が20人も並んでいる。

 庭には梅も咲いていて、2月には珍しい温かい日。

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会場エントランス

 

 高齢者が多いことを察してくださった、やはり高齢者の主催者の方が、開場時間より10分ほど早く小さなくぐり戸をあけてくださった。ありがたい。

 このくぐり戸、腰をかがめて入るのだが、いつも頭をぶつける。というのも、高い敷居を跨いだ時につい伸びあがってしまうのだ。

 ゴツッと音がしてかなり痛かったが、大人だから我慢する。

 帰りもぶつけた。痛くないふりをしてみた。

 

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 コンサートの標題は

「~表現の挑戦1900年代~ 松本紘佳ヴァイオリン・リサイタル~佐藤卓史氏をお迎えして」。

 

 文化庁新進芸術家海外派遣研修員をはじめいくつもの奨学生となって、ウイーン市音楽芸術大学修士課程までを首席で終え、現在慶応義塾大学の総合政策部に在学している松本が、みたび意欲的なプログラムを組んだ。

f:id:keisuke42001:20190209164640j:plain松本紘佳(1995-)

 

 昨秋9月には、同じ佐藤卓史とともに、ベートーヴェン8番、プロコフィエフドビュッシー、そしてフランクの30分の長大なソナタ、月末には、梯剛之を迎えてベートーヴェン2番、ドビュッシー、やはり30分近い大曲R.シュトラウスソナタと、聴く方にとっては気合を入れざるを得ない選曲のコンサートを立て続けに行ったが、今回はなんとショスターコヴィチのヴァイオリン協奏曲1番(1947-1948)である。

 

 序盤のエネスク(ルーマニア)の「幼き頃の印象Op.28」(1940)やW.ルトスラフスキー(ポーランド)の「スピト」(1992)、二つとも技巧的でかなり難解な印象だが、松本は最初から飛ばす。相変わらず軽快に弾きこなして、聴衆を引っ張り込んでいく。

 

 序盤最後のプーランクソナタFP119(1942-1949)は、スペイン内戦の中でフランコ政権によって銃殺されたガルシア・ロルカへ捧げられた20分の曲だが、戦争の世紀に権力によって抹殺されていった詩人へのオマージュと処刑に至るまでのロルカの生涯への哀惜を込めた大曲。

f:id:keisuke42001:20190209164208j:plainプーランク(1899-1963)のパリの家

 

 耳と気持ちが着いていくのが精いっぱいだったが、最前列で若い二人のしのぎ合うような演奏に最後まで引っ張られていった。

 

 佐藤卓史は、テレビ東京の「音楽交差点」のレギュラーのピアニストだが、テレビの中の、一歩引いた立ち位置とは違って、重厚さと繊細さが同居した大胆な演奏。もちろん松本のヴァイオリンには、けれん味がなく、どこまでまっすぐ突き進む力強さを感じた。

 

そして後半、ショスターコヴィチである。演奏時間40分とプログラムにはある。実際には測っていないからわからないが、全体にゆったりした印象がある。

私がもっている五島みどりのCD(1995-1997録音・ベルリンフィルクラウディオ・アバド)は36分、もうひとつヴィクトリア・ムローヴァのもの(1988年録音、ロイヤルフィルハーモニー管弦楽団アンドレ・プレヴィン)は、34分ほど。

ふたりの演奏では、オケ部分を佐藤のピアノ一台が代替するわけで、素人考えでは全体にテンポは速くなってもいいものだが。コンチェルトのスケール感を意識しての演奏と云える。

 初演は1955年10月29日、エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラードフィルハーモニー交響楽団、ヴァイオリン独奏ダヴィッド・オイストラフ。懐かしい名前が並ぶ。

f:id:keisuke42001:20190209164033j:plainドミトリー・ショスターコヴィチ(1906-1975)

 作曲されたのが1947―1948なのに、初演が7年後になったのは、戦後のソヴィエトの芸術をめぐる論争があったからのようだ。いわゆるジダーノフ批判である。

 形式的で教条的な社会主義リアリズムの前には、音楽家の自由な想像力など無意味とされてしまう傾向、と私なりにこれを理解しているが、ショスターコヴィチ自身は対決するより沈黙することで自分の位置を守ったのではないか。

 ショスターコヴィチの中では、社会体制よりも新しい時代の12音音楽とロシアの民族主義的な音楽を融合させたもの、そんなものが目指されていたのかなという程度の理解しか私にはない。

 体制的であれ、反体制的であれ、体制が変われば立っている位置も変わる。生き延びること、音楽をつくり続けることをショスターコヴィチは選んだのだろう。 

 

 第1楽章。「ノクターン」と題されているが、そういうロマンチックな雰囲気ではない。導入は、オケの場合、弦の地を這うような低音から入るのだが、どこか不吉な様相を呈する。佐藤のピアノは最前列で聴いていると、その波動がそのまま伝わってくる。

 

 ヴァイオリンが入ると、ノクターンとは懸け離れた無調の響きが、哲学的な内省を誘う。これが若者二人がつくりだす世界か?まるで人生の不可解さをなぞっていくような。

 

 第2楽章は一転明るい色調に。「スケルッツォ」。ここはオーケストラで聴くと面白いところだ。二人の超絶技巧が絡み合う。すごい迫力だ。

 

 第3楽章「パッサカリア」、第4楽章「ブルレスケ」、もう追いつけない。最後は圧倒的な大音量で終わる。

 

 風邪から復調して、昨日、今日と五島みどりムローヴァの演奏をそれぞれ2回ほど聴いた。部分的には全く違う曲のような印象がないわけではない。もともとコンチェルトをソナタのように演奏することの大変さがあるわけで、これは仕方がない。

 

 しかしその分を割り引いても佐藤卓史のピアノ、これはやはりすごい。編曲版というのがだれが書いたのかはわからないが、あれほどのオーケストレーションをピアノ1台にまとめるのは至難の業、さらにそれを演奏するのは、大変な技巧と構成力、そして集中力を要求されるだろうに、見事に弾ききった。

f:id:keisuke42001:20190209164701j:plain佐藤卓史(1983-)

 

 松本は、「この曲大好きで、いつかオーケストラと協演できる日を楽しみにしてるんです」と語っていたが、ネタおろし?とは思えないほどの完全暗譜の集中力と音色の深み、攻めるところはどんどん攻めていて、かと言って引くところが薄っぺらにならない。長いこと彼女の演奏を聴いてきているが、小さくまとまらない、というより大きなスケール感が大きな魅力、今回もその魅力がいかんなく発揮されたのではないかと思う。

 

 寡聞にして他の演奏家の演奏は聴いたことがないが、五島みどりムローヴァという高い山が松本の前にそびえていることは間違いない。

 今まで聴いた松本のコンチェルトは、チャイコフスキーメンデルスゾーンベートーヴェン、ヴィバルディ、シベリウス、まだいくつかあったかもしれないが、いずれも小さなからだでオケとがっぷり組んだ演奏だった。そんな松本が、いつかオーケストラをバックに、このショスターコヴィチの大曲を演奏する日が来ることを心から願っている。

 

 ステージを降りれば松本は一人の卒業生ではあるのだが、コンサートのたびに新しい音楽の世界を見せてくれる彼女は、私たちの老いを音楽で押しとどめてくれている、今でも大事な友人である。

 

アンコール曲:①タイスの瞑想曲

       ②クライスラーの中国の太鼓

       ③モンティのチャールダッシュ

 

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我が家の山菜

友人のAさんからいただいたコシアブラ、ようやく葉が出て来ました。

天ぷらが楽しみ。