『バルバラ セーヌの黒いバラ』、バルバラを楽しもうと思っていくと・・・。2度見て面白さが感じられればいいけれど?

U バルバラ セーヌの黒いバラ』(2017年・仏・98分・監督マチュー・アマルリック・主演ジャンヌ・バリバールをジャック&ベティでみた。


 「セーヌの黒いバラ」というサブタイトルは日本の配給会社がつくったもの。原題“Barbara”。ヨーロッパ的なそっけないタイトルのつけ方。

f:id:keisuke42001:20190131160157j:plain                   このポスター「違うんじゃないの」と思う。バルバラはこんな退廃的なイメージとは程遠い。


 私がもっている30年以上前のバルバラのレコード、00年代になって買ったCD,ともにジャケットの印象はモノクロ、黒が勝っている印象。

 だから「セーヌの黒いバラ」という惹句は、“バルバラ”という音と色彩の黒がうまく融合していて、すとんと落ちてくる。

 

 黒いバラの花ことばは、「憎しみ」「恨み」「あなたはあくまで私のもの」「決して滅びることのない愛」「永遠」。

 意味が広すぎる。

 痒いところまで手が届く邦題、でもバルバラの歌に、合いそうで合わない。

 バルバラの歌は、憎しみとか恨みという強い感情より、悲しみや諦めのような静かな大人の女性の情感がただよっている。

 言葉に呑まれて、日本だけのバルバラのイメージをつくってしまうのはよくない。

 

 

 なんの下調べもせずに出かけた。無意識に、バルバラの歌と古い映像をたっぷり見せてくれるのだろう、敬愛する年配の女性に会いに行くような気持ちでみにいったのだ。

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ジャンヌ・バリバール

 

 期待したものとは違った。映画の構造が複雑で、なつかしさは半分ぐらい、楽しむところまでいかなかった。
 

 バルバラを主人公とした劇中劇、バルバラを演じるバリバールが、映画の中で撮られているバリバラをも演じている。そのうえ監督のマチュー・アマルリックはこの劇中劇の映画の監督を務める。さらに劇中に登場してくる。

 ややこしい。バルバラを演じるブリジットは、劇中でバルバラにのめり込む。バルバラの歌も動作もすべて自分の中に取り込もうとするあまり、知らず知らずに精神もバルバラに支配されていく。監督であるイヴ・サンド(マチュー・アマルリック)はそんなブリジットにのめり込んでいく。

 劇中の映画の監督をしながら、監督が劇中の登場人物になってしまう。このあたりからよくわからなくなっていく。現実と妄想が交叉し、どこからが映画なのか劇中劇なのか。

 この監督の作品でみたのは、『007慰めの報酬』と「潜水服は蝶の夢をみる』。後者は印象が強い。単純なつくり手でないことは間違いない。


 わからなさをさらに助長したのは、私の居眠り。わからないから寝てしまったのか、寝たからわからないのか。気がつけば、バルバラとバリバールの区別さえおぼつかなくなっていた。それほど、バリバールの演技はすごかったということでもあるのだが。

  

 優れたシンガーソングライターだったバルバラの代表曲「ナントの雨」のフィルムが見られなかった(たぶん)のが残念。バルバラときいたとたん、耳の奥から聞こえてくるのは「ナントの雨」の冒頭のメロディだ。

f:id:keisuke42001:20190131160314j:plainバルバラ

 

 思えば80年代はじめ、のめり込むようにしてバルバラを聴いた時期があった。

 黒のドレスに身を包んで、杳として素性のしれない逆境の女性歌手、70年代の藤圭子がそうだったように、プロデュースする方と聴く方が勝手につくったイメージではあるのだが、二人に共通するのは、そうしたイメージが深い奥行きをもったものとして感じさせてしまう歌唱の圧倒的な力だ。


 バルバラが亡くなって20年、いまだにフランスで彼女の人気は衰えていないという。

 

 歌手としての華やかさは彼女からは感じられず、映画の中にも出てくる、地方の村をトレーラーに乗ってコンサートを開いてまわるといったエピソード、また母親の面倒を見ながら曲作りにいそしむ部屋の空気、そんなものに惹きつけられるものがあるのは間違いない。

 

 私にとっては、D・フィッシャー・ディスカウや、ペーター・シュライヤー、ナタリー・シュトットマン同様、いつまでも聴き続けたい歌手のひとりだ。

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 バルバラは1930年生まれ。父親がユダヤアルザス人で、第二次世界大戦中は、ナチスによる迫害を逃れてフランス国内を転々としたという。

 

 もう一度、みるか?