『ジグソーステーション』(中澤晶子)復刊。読者は21世紀の現在からいったん「90年頃」に旅をし、さらに戦後直後に時間の旅をすることになる。この二重性が、読む者に当時とは違った思考を迫るのではないだろうか。

   子ども読み物作家の中澤晶子さんから、刊行されたばかりの『ジグソーステーション』(汐文社)の復刊本を送っていただいた。3月の『さくらのカルテ』以来、今年2冊目。


 手に取ってみると、一見、初版(1991年・汐文社)のもの(私が見ているのは96年の4刷)と変わらないように見えるが、よくよく見てみるとかなり違う。ハードカバーは同じだが、版型が小さくなっている。コンパクトで今ふう。面白いのは、表紙、裏表紙は描かれている題材は変わっていないのに、みな新たに描き起こされていることだ。


 中澤さんとのコンビで仕事をされることの多い、鎌倉在住の画家ささめやゆきさんの手によるもの。裏表紙の「東京駅」や、すべて差し替えられている文中の挿絵から、ささめやさんの変遷が伝わってくるような気がする。比べて見てみるとデフォルメ具合が素人目にも小気味よく感じられる。


 本文には手が入れられていないけれども、よくよく目を凝らして見れば、これは改装版というより新装版というべき本である。

 

お詫び:写真の回転の方法がわかりません

f:id:keisuke42001:20181130151138j:plain1991年版

 

f:id:keisuke42001:20181130151300j:plain2018年版



 というのも、27年を経て子どもの読み物が復刻されるということが、よくあることなのかどうか私にはわからないのだが、この本が“体幹”の強さとバランスはそのままに、本自体が成長を遂げたように感じられるからだ。


 子どものときにこの本を読んだ思い出のある方々が、30年近くの時間を経てちょうど同じ年頃の子どもに本を買い与えようとしたときに、書店の平台にこの本を見つけたとしたら、うれしさは望外だろう。2011年に復刊された『あしたは晴れた空の下で―私たちのチェルノブイリ』<1988年初版・2011年復刊)もそうだったように。

 そして子どもが読む前に再読するのを想像してみる。そのとき本も人とともに成長していることを実感するのではないだろうか。


 久しぶりに再読してみた。中身は詳しくは書かないが、東京駅を舞台に学校嫌いの小学生真名子が主人公となって、時間と空間の不思議な旅を体験する物語である。
 

 著者が手を入れなかった理由がわかるような気がした。


 物語が戦後直後と「現在」を行き来すると言っても、戦後70余年の中の「現在」は一様であるはずもなく、登場人物である真名子はもちろん、「おじさん」や「糸次郎」のもつ「現在」は1990年ごろ特有のものである。

 東京駅も戦後45年と現在とでは、再建されていて似て非なるものである。とすれば、読者は21世紀の現在からいったん「90年頃」に旅をし、さらに戦後直後に時間の旅をすることになる。この二重性が、読む者に当時とは違った思考を迫るのではないだろうか。


 戦後直後の東京駅の情景や人々の描写は、真名子の眼によって驚きをもって表現され、90年ごろの描写は真名子のもつ同時代性によってか、どこかけだるい。

 

 現在のきれいに上書きされた感のある東京駅は、姿かたちは似ていても、もうこんな物語は似つかわしくない無機質ささえ備えている。人々も同様で文中の「おじさん」が中学生だったころの「戦後」への想像力は弱まるばかりだ。

 90年ごろ・・・バブルはそろそろ終わりをつげ、戦後政治は転換期に入り、湾岸戦争には200億ドルを供出する・・・、さて現在は・・・。

 

 誰にでも忘れられない「あの場所」というものがある。しかし実際に訪れてみると、すでにかたちをなくしてしまっていたり、あったとしても存在の意味が変わってしまったりしているものだ。時間というものは残酷なものだが、それでも忘れられないもの、忘れてはならないものがある。この物語は、真名子という少女のからだと心を通してそんなことを私たちに伝えているようだ。


 ヴァイオリンとそのケースをめぐる子弟や兄弟のエピソードは痛切である。またネコの動きによる場面転換も鮮やかだ。随所に傍線を引きたくなる箇所がある。


 手元に『井上ひさし全選評』(白水社・2010年)がある。これは、氏が選考委員を務めた文学賞の選評・寸評を集めたものだが、井上は1991年第29回野間児童文芸賞新人賞を受賞した二つの作品について次のように述べている。

 

「『きんいろの木』(大谷美和子)は、自閉症の兄をもった少女の、『ジグソーステーション』は、東京駅を遊び場にする少女の物語である。どちらも物語を構成する膂力がたくましく、結末に至れば読者を励まさずにはおかないという美点を備えていた。物語の構築力と読者を奮い立たせないではおかぬ作家精神とにめぐまれたお二人の未来に期待する。」

なお、この時惜しくも新人賞を逃した作品に『九月の雨』がある。のちに長編青春小説『一瞬の風になれ』などを著す佐藤多佳子氏の作品である。

 

 

中澤晶子

1953年名古屋市生まれ。広島市在住。1991年、『ジグソーステーション』で野間児童文芸賞新人賞受賞。『あしたは晴れた空の下で 僕たちのチェルノブイリ』『3+6の夏』『さくらのカルテ』(汐文社)『こぶたものがたり』(岩崎書店)をはじめ、多くの作品を発表している。画文集に『幻灯サーカス』〈絵:ささめやゆき、BL出版)などがある。日本児童文学者協会会員。

 

ささめやゆき

1943年、東京生まれ。1985年、ベルギー・ドメルホフ国際版画コンクールにて銀賞、1995年に『ガドルフの百合』で小学館絵画賞、1999年に『真幸くあらば』で講談社出版文賞さしえ賞受賞。『かわいいお父さん』(こぐま社)『椅子ー幸せの分量』(BL出版)、『あひるの手紙』(佼成出版社)、『猫のチャッピー』(小峰書店)など、多くの絵本、画集、挿絵をてがける。

 

 

 

 

 

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 こういうポスターをバスの中で見かけるようになったのはそんなに古いことではない。おせっかいなものが多い。トイレに入ると、「きれいに使っていただきありがとうございます」(男子用小便所)、駅のホームでは「かっとなってしまった、人生が変わった」(車内暴力)

 このバスの中のポスター、びっくりした。予定時刻になってもなかなか来ないことが多いのに。表現は丁寧だけれども、ここまで言うか?

 この間、大阪に行ったとき、駅のホームでけっこうみんな並んでいた。関西でも並ぶようになってしまったんかい?と思った。大阪の東京化?  

 言葉は、この20年くらい、関西弁が関東にしみ出てきているのに。

 こういう現象、前からそうだったんじゃない? ではない。空気が変わってきてるのだと思う。