彼らと過ごした80年代初頭は、全国的に「荒れる中学」が席巻した時代。毎日のように校内暴力が報道されていたころだ。横浜では83年冬にいわゆる「浮浪者殺傷事件」が起きている。今なら「ホームレス殺傷事件」ということになるが。

 前回紹介した11月10日の広島の集会、友人のお話によると居森公照さん、鎌田七男さん、お二人とも素晴らしいお話だったそうだ。ご高齢ではあるが、これからもずっと続けていただきたいと思う。首都圏でもお二人のお話が聞ける機会があれば出かけるのだが。

 

 同じ日、初任校で1983年3月に卒業した人たちの学年の同窓会があった。早くに出席を決めてしまったので、広島には行けなかった。この回、2年おきに開催されていて今回で5回目だという。毎回案内はいただいていたのだが、都合がつかなかったり、気が重かったりして欠席を続けてきた。今回、行ってみようかと思った。理由は自分でもよくわからない。

 

 卒業生は10クラス450名ほどだった。卒業式から36年が経つ。みな50歳、51歳になる。時たま会う人もわずかにいるが、ほとんどは30年以上ぶりの再会。人生のヤマ場をいくつも乗り越えてきて少しほっとできる年齢か。

 

中一のときの幼くかわいい女の子だったクラスの女生徒は36年ぶり。当時の雰囲気をそのままに残している。こういう人もいる。今年、孫が七五三だという。30代にしか見えない。

 長い間風雪に耐えて、髪の毛もおなかも私とほぼ同輩にみえる男性。親しみがわく。

 突然目の前に現れて「私、わかりますか?」と言われすぐに名前が出てこない。みなどこにでもいる50代前半の男女。街で遇ってもわからない。一瞬、どう反応していいかわからない。当惑が顔に出なければいいのだが。

 うまくバランスの取れない不思議な時間が続く。

 

 彼らと過ごした80年代初頭は、全国的に「荒れる中学」が席巻した時代。毎日のように校内暴力が報道されていたころだ。横浜では83年冬にいわゆる「浮浪者殺傷事件」が起きている。今なら「ホームレス殺傷事件」ということになるが。

 

 私は初任から2まわり目の学級担任。二十代後半。彼らが口々に語る当時の様子や思い。その中に浮き出てくる自分の姿は、若々しいには違いないが、なんと前のめりで思い込みのきつい青年教師であることか。

「先生、組合、ほかの先生たちと違ったんだよね」「一人でストライキやっていたのを知ってる。職員室の机の上に煙突みたいの立ててさ」

 

 教員になって2年目に日教組系の100%組合浜教組を脱退、少数派の独立組合に加入。嫌がらせや差別は教員の世界でも例外ではなかった。“組合を割る”は、悪そのもの。止めてくれたのは校長だった。

 仕事で負けてなるものかと日常の生徒との付き合いと仕事、そして組合活動に気負いだけで取りついていた。

 クラスには不登校から復帰してそのままツッパリとなった男子がいた。夏休み明けに剃りこみを入れた坊主頭に刺しゅう入りのシャツ、シンナーを吸いながら登校した。この子の処遇をめぐって管理職や生徒指導部とことごとく反目した。少年鑑別所、施設、少年院、いろいろなところに面会にも行った。この生徒については拙著『不適格教員宣言』にも書いた。彼はこの会には一度も出席していないらしい。

 

 この学校、校内暴力こそさほどではなかったが、バイクやシンナー、暴力事件などいろいろなことがあった。その中のひとり2,3年と受け持ったS君。仕事の都合で少し遅れてきた。30年ぶりに話を聞く。

 現在、不動産会社を経営しているという。細身のダークスーツに身を固め、静かにゆっくり話す口ぶりには当時の面影はない。商売っ気も感じさせない。刮目してみる。

 中学卒業後、ようやくの思いで入学した私立の男子校を、教員とのトラブルでやめ、数年後に県立の定時制高校に入学。周囲の生徒のほとんどが退学していく中、彼は21歳で卒業。同時に宅建を取得して不動産会社に就職。20年ほど勤めて独立したという。自らは酒を呑まず私に酌をしながら、気負いも感じさせずに淡々と来し方を話す姿、かっこいいなと思う。

 

 60人近くの出席、話は途切れない。。当時の授業のこと、生徒指導のこと、文化祭の行事のこと、部活動のこと。顧問が転勤でいなくなり、このままだとつぶれてしまうというので引き受けた吹奏楽部の顧問。それまでもっていた40人ほどの合唱部と50人以上の吹奏楽部、練習掛け持ちの夏休み、今なら“ブラック文化部”と揶揄されても仕方がない。そしてコンクール。県民ホールでの演奏のことを熱く語る女生徒を前にして、課題曲の曲名が思わず口をついて出てきたのに驚いた。前頭葉が刺激されたようだ。何年も思い出したこともなかったのに。

 

 1983年3月に朝日ジャーナルに文章を書いたことを憶えていた生徒がいた。そんな話は授業ではしなかった。「親が読んでた」という。浮浪者殺傷事件と現場の矛盾、中学生のありようを書いた30枚ほどの原稿だった。記者と一緒に徹夜をして仕上げたことを思い出した。少しだけ年上の記者のアドバイスに従って夢中で書きあげた原稿だった。ワープロもパソコンもない時代。狭い組合事務所のデスクの横で、彼は私の悪筆を次々と清書していく。ほとんどとどまることなく一気に書いた。気がつけば夜が明けていた。編集者の存在の意味を感じた最初の濃密な時間だった。

 

 会は際限なく続く。みなどんどん声が大きくなる。楽しい話ばかりではない。結婚、離婚、死別、再婚、転職・・・こっちはうなずきながら聞くだけだ。電車がなくなるので2次会の途中で中座したのだが、6時間以上も話をしていたことになる。

 

 昔話をしただけと言えばそれ以下でも以上でもない。酒を呑んで断片的なエピソードを一緒に笑い飛ばしてしまえばそれで終わり。次に会うのはいつかも分からない。それでいいはずなのに、どこかに疼痛のような感覚がある。悪い癖だ。日付を越えた電車に乗るのは久しぶりだった。