今、私たちが即座に現地の様子を映像で見られるのと違って、130年前の明治の人々こうした絵一枚から被災の状況を想像するしかなかった。災害はいったいどんなふうに人々の心に刻まれたのだろうか。

 9月8日の最後のところで、横浜・関内ニュースパークの“新聞が伝えた明治―近代日本の記憶と記録”という企画展で見た磐梯山噴火の速報について触れた。
 私は、画家山本芳翠が描いた噴火のシーンは、裏磐梯から見たものだと書いた。爆発と言えば裏磐梯と思い込んでいたふしがある。

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 一緒にニュースパークを訪れた二人M君H君(6月の項でしまなみ海道を一緒に歩いた友人である)のうちH君から「磐梯山噴火の号外の絵は、川桁から見た磐梯山であることがわかりました。絵にあった山のかたちが、現在の赤埴山と櫛が峰のピークと一致しているように思えた点と、新聞の速報にあたる号外の絵をわざわざ時間のかかる裏磐梯まで行って描きはすまいと思われる点、それにそもそも裏磐梯では画家の身の安全が確保できまいと思われる点、東京により近い場所からというのが常識的だと思います」というメールが届いた。今朝のことである。


 H君はつい先日、生まれ故郷の会津にお墓参りに行って来たという。数日前に横浜で見たあの絵は裏磐梯ではないのではないかという疑念があり、途中、実際に確かめてみたのだそうだ。

 


 ふるさとの山に詳しいH君ならではの論理的な展開に、私が思い込みでブログに書いた“裏磐梯説”は撤回しなければと思ったのだったが、ネットでもう一度山本芳翠の絵をみてみると、また「そうかなあ」という気持ちになる。こうなったら客観的な裏付け、今風に言えばエビデンスがあった方がいいと思い、いろいろネットで調べているうちに北塩原村にある磐梯山噴火記念館(〒969-2701 福島県耶麻郡北塩原村桧原字剣ヶ峯1093-36開館時間:8:00~17:00:冬 9:00~16:00休館日:9:00~16:00 冬季間は土日・祝日・春休み期間以外は休館)に行きついた。思い切って電話をしてみた。

 

 「そういう質問は初めてですね」と学芸員の方が、やや怪訝な感じはあるが、特に迷惑そうでもなく話を聴いてくれた。返答は意外にあっさりとしたもの。

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山本芳翠(画)(1850~1906)合田清(刻)(1862~1938)磐梯山噴火真図 1888

郡山市美術館蔵

 「あれは裏磐梯からのものだと思います。噴火の絵のほとんどが裏磐梯から描かれていますし、火口の高さがやや低い位置にあること、右上にかすかに見える山容からしても、はっきりそうだとは言えませんが、7:3ぐらいで裏磐梯だと思われます」とのことだった。
 

 そうなるとH君の直感が外れたことになる。彼にメールで返事を書き始める。そこへ思いがけぬことに磐梯記念館から電話。さっきの電話から30分も経っていない。私は横浜市民といっただけで名乗ってもいないし、電話番号も言っていない。ま、名乗られても困るだろうし。リダイヤルか。
 

 「先ほどの件ですが、山本芳翠について書かれたものを調べてみましたら、1888年7月20日に郡山について(噴火は7月15日である)人力車で猪苗代の山形という宿に向かったとあります。あの絵はその途中で見えた磐梯山を描いたと思われます(21日とあるものもある)。そこから考えると、この絵は裏磐梯ではなく猪苗代側から描いたと考えた方がいいと思います」とのこと。

f:id:keisuke42001:20180913111232j:plain磐梯山噴火記念館

 

 ほかの資料には山本が到着したのは1週間後とあるものもある。速報と言っても当時はこんなものだったのだろう。

 となると、山本は直接噴火を見てはいないことになる。噴火は15日朝7時過ぎに始まり、10時には沈静化、当日16時には終息したとされる。余震のように長引いてはいないのである。

 ”速報”であるからか、山本はこの時、紙に描かずに版木に直接絵を描いたと言われるが、その絵はたぶん噴火を見聞きした人々からの伝聞をもとにしたものにちがいない。たくさんの”目撃情報”が巷を飛び交っていたのだろう。


 郡山―若松(当時)をつなぐ磐越西線の開通は1899年を待たねばならず、当時は郡山から人力車を使って峠を越えて猪苗代に向かうことになる。峻険な中山峠を人力車で越えるのは車夫は当然のこと、客もかなりしんどかったと思われる。
 H君がいう川桁は猪苗代の一つ手前の駅である。現在は無人駅となっているが、一日平均100人ほどの乗降客がある。

 

 とするとH君の話と、宿に向かう途中で描いたのだろうという記念館の方の話と、”川桁”で符合する。まずまちがいない。あの絵は表磐梯、猪苗代側から描かれたものである。


 磐梯山の噴火は、明治以降の火山の噴火の中で最大の被害を出したものといわれている。死者数477名。土石流によって3つの集落が埋没している。ほとんど前兆のようなものはなく、山腹にある3つの湯治場に訪れていた客はだしぬけに起きた鳴動に驚き、慌てて逃げ出そうとして被災した人が多かったようだ。死者に比べて負傷者の数が少ないこと、死者の収容数が少なかったことなどが特徴だという。岩屑なだれ、火砕サージ(火山の噴火の際に発生する現象のひとつで、火砕流に似ているが火山ガスの比率が高いため密度が小さく、高速で薙ぎ払うように流動する現象。時速100キロで移動することもある)などによって広範に被害が広がったといわれる。
 

 現在は風光明媚な観光地だが、ちょうど130年前の今頃、この地は大きな悲しみと訪れの早い秋の冷たい風に包まれていたと想像できる。
 

 山本芳翠の絵は東京に送られ、相田清によって仕上げられ、8月1日朝日新聞の付録として配られた。まだ新聞に写真が載らない時代、山本の精細でリアルな噴火の図は都会の人たちを驚かせただけでなく、今とは比べ物にならない恐怖感を抱かせたのではないか。それまでの新聞の絵は多くが錦絵で、歌舞伎役者が隈取をつけて登場するような絵だった。

 配布は噴火から2週間後のことである。

 

 今、私たちが即座に現地の様子を映像で見られるのと違って、130年前の明治の人々はこうした絵一枚から被災の状況を想像するしかなかった。災害はいったいどんなふうに人々の心に刻まれたのだろうか。

 
 
 以上、訂正とお詫びである。