「珊瑚礁の外で」(文學界2018年5月号) つまるところ、青来はこの国の「戦後」とか「近代」のうわっつらにかけられたベールを、自らの日常を通して剥いでみせたかったのではないか。

 今回,芥川賞を受賞した高橋弘希氏の「送り火」を読むために文學界5月号をAmazonで買い求めたことは以前にも書いた。一時はずいぶん価格が高かったが、私が買ったころには定価に戻っていた。
 

 「送り火」は160枚。もうひとつ青来有一珊瑚礁の外で」240枚が載っていた。単行本2冊分。


 青来有一氏は「聖水」「爆心」から読んできたが、私にとって楽しく読める作家ではない。読み終わったあとにいつも何かすっきりしない澱のようなものが残る感覚がある。
 

 青来は1958年、長崎市生まれ、長崎在住。市の職員で、2010年から長崎原爆資料館の館長。1995年「ジェロニモの十字架」で文学界新人賞、2001年に「聖水」で芥川賞被爆2世である。

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 彼の作品にはいつも戦争、原爆、キリシタン、といった土地の記憶に耳を傾ける志向が働いている。戦後世代として、長崎という土地のもつ独特の物語を紡ぎだしている。

 

 さて「珊瑚礁の外で」。
 ここ数作で青来は私小説的な傾向を強めているように感じてきたが、この作品はさらにその傾向が強まっている。この私小説風に傾いていく傾向をどう受け止めるか、読者によってかなり違うような気がする。


 私には青来が、現在の自分の境遇に、いわゆる私小説的な意義を見いだしているようには思われない。

 

 60歳に差し掛かる青来を取り囲む日々のディテール、それは解決の糸口すら見いだせない厳しい閉塞状況であることは理解できるし、それに対し青来は、この作品である種のうつ的な怨念を込めて自らの精神のありようを精緻に表現しているのだが、取り上げられている一つひとつの事象をつないでいるのは、やはり戦争や原爆であり、信仰であり、長崎という土地のもつ記憶と現在である。


 とすれば青来は、今までの「創作」からはみ出るように自分の生活を通してもう一度長崎や原爆や戦争をとらえ返そうとしているということになる。”つくりもの”ではとらえきれないものがあると感じられているのだろうか。

 少なくともこの小説は日本的な私小説の流れとは一線を画しているように私には思える。

 

 小説は冒頭、アーケード街の入り口でポケットに手を突っ込んで頭を垂れている70代の老人の様子を見て、「わたし」が沖縄の海でシュノーケリングの途中に珊瑚礁の外まで泳いでいき、海の深みを覗き込んだ時のせっぱつまった感じを思い出すところから始まる。

 「わたし」はそこで死ぬ思いをするのだが、そこがサーファーたちからはsuicide(自殺) と呼ばれている場所であることからsuicide attack(特攻)をイメージし、それが外海の闇とつながって、海に呑み込まれる恐怖と重なる。

 このイメージが、現在の「わたし」の生活の中に何度も浮かび上がってくるという構造が、この小説の大きな外枠である。
 

 「私」の日常は、妻が実家に帰っていない大晦日一日のこととして描かれるが、幾つもの回想も含まれていて読者は時々道に迷いそうになる。少なくとも私はそうだった。

 新造船のためにどこか知らない外国から連れてこられた「ガイジン」らがまき散らす無法者ぶりに「わたし」はささやかな抵抗を試みるのだが、それはほとんど有効性をもたないばかりか軽侮を交えた反抗に遭い、どうすることもできず「わたし」はただただ「ガイジン」を呪詛するのみだ。

 水道管の奥から聞こえてくる人の声のような不気味な音は、商店街で買い求め「ガイジン」に投げつけたナマコとともに、ここでも深海での死の恐怖と諦念が重ねられる。きわめて文学的な部分である。

f:id:keisuke42001:20180816142420j:plain青来有一


 「わたし」には、認知症の初期症状なのか時間の感覚と金銭感覚の狂ってしまった母親がいる。その母親に取り入って金を無心しようとする親戚の女について、これにもまた「わたし」はどうにもならない無力ぶりをさらすのだが、まるで彼女への意趣返しのようにその手口、やり口が悪意を含んでとまで言っていいほど克明に描かれる。
 

 出口のない日常の中で、「わたし」は異文化交流とか人権とか国際化といった近代的な発想にくるまれた生活の中に、沖縄の海でみた深い深淵のような海を見てしまう。

 どうにもならないのならいっそ・・・といったうつ的閉塞的な感情の中で、右翼団体の年老いたリーダーとのかかわりが語られる。そこではまるでリーダーの方が戦後民主主義的な位置にいて「わたし」の方が右翼的な発想に導かれていくかに見える。

 この小説の重要な部分と思われる。


 作中、母親と女にかかわる部分にはかなり迫力があり、私小説として引き込まれる部分が続く。出口のないうつ的な状況にあっても、思考と表現は的確で深く、うならせるところが随所にある。

 つまるところ、青来はこの国の「戦後」とか「近代」のうわっつらにかけられたベールを、自らの日常を通して剥いでみせたかったのではないか。

 戦争という実体が今目の前にないにしても、青来にとっては、長崎という街の変容と母親を取り巻く状況自体がまさに戦争状態であり、人が生きていくうえで人間的につながることのない常に死の恐怖におびえる「珊瑚礁の外」であることを伝えようとしているようにみえる。
 生煮えの感想であることは承知のうえだが、青来が長崎を離れずに書き続けていることの意味に少しだけ近づけたような気もする読後感ではある。

 

 

f:id:keisuke42001:20180816164023j:plain         本文とは関係ありません。

撮影自由のオランダ国立美術館、奥の方に”夜警”が見えます。