『スターリン葬送狂騒曲』映画なのだから、ああ面白かった!でいいのだと思う。それなのに最後まで笑いきれない居心地の悪さ、つい後ろを振り返ってしまうような心もとなさが残る映画でもあった。

 

 

 『スターリン葬送狂騒曲』(2017年・イギリス・原題:The Death of Stalin・107分・監督アーマンド・イアヌッチ)をみた。ららぽーと横浜のTOHOシネマズ。


 TOHOシネマズはJR横浜線鴨居駅から鶴見川にかかる人道橋をわたって北へ1㌖ほど行ったところにある。大型ショッピングパーク“ららぽーと横浜”の一角にある。近隣にはシネマコンプレックスがいくつかあるが、ここは時々面白い番組を組む。「これ、みたいな」と思って調べると、ここだけにかかっていることがよくある。
 

 スクリーンは12面ほどあるが、この日はプレミアシートでの上映。どうしてこの映画が?観客は30人ほど。封切りにしては少ない。

 ここは120席ほどで、座席が大きくゆったりしている。となりの座席との間に小さなテーブルがあり息苦しさがない。

 お得感はあるのだが、つい気持ちよく寝てしまうことも。

 


 さてスターリン。1953年ソ連。冒頭、まだスターリンは生きている。教科書などのスターリンの写真は威風堂々としているが、こちらは小柄でずる賢そうなせせこましい人物として描かれる。

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モスクワ放送でピアノコンチェルトの生放送が行われている。
突然スタジオに電話が入る。スターリンからである。


「17分後に電話をしろ」。

 

 局員はかけなおす番号を確かめるだけでパニック状態に。電話を切ってから、いったいどの時点からの17分後なのか同僚ともめる。恐怖心。同僚は、あからさまに自分には関係ないという態度。


 17分後に電話をすると、スターリンは「生放送の曲が気に入ったから録音がほしい、これから取りに行かせるから」と。

 

 局員は「録音したよな!」と同僚に詰めよるが、同僚はさらっと「していない」。

 

 もう一度やるしかない。この慌てぶりが尋常ではない。指揮者も地に足がつかず、スタジオでバケツに足を引っかけて倒れ、動かない。急に呼ばれた老指揮者は粛清と勘違いして悄然とパジャマ姿で現れる。ギャグである。

 ピアニストの女性は反スターリン。父親をスターリンに粛清されている。スターリンのための演奏など断固拒否。しかしすぐにお金で解決。面白い。

 あとは観客。帰ってしまった客を呼び戻しても人数が足りない。響きをよくするために街から音楽に関心などない人をたくさん連れてくる。


 こうして再度演奏、録音が完了する。レコードを取りに来た軍人は、遅れたことを「記録する」と局員に通告。顔色を失う局員。


 人々の慌てぶりはみな「記録する=リストに載る」ことを恐れるゆえだ。リストに載れば殺される。そうならないために上から下までみなまさに忖度、奔走する姿がコミカルに描かれる。

 

 これはイギリス映画だ。だから舞台はソ連なのにみな英語で話している。ロシア語は分からないけれど、やっぱりこれって変。片言のロシア語すら出てこない。英語でソ連を演じるという確信犯。

 

 イギリスではこの10年あまり、元スパイや亡命したロシア人が殺されるという事件が頻発している。この3月にも亡命している元スパイとその娘が薬剤で殺されるという事件が起きている。イギリス警察はこの事件をロシア政府による神経剤による暗殺と断定、捜査に乗り出しているが、これにロシアは反発、国際問題化している。


 そんな中でのこの映画、舞台がソ連時代とは言え、現代にも通じる部分を誰もが読み取る。プーチンの独裁化は深まるばかりだし、反プーチン派は厳しく排斥されている。殺害されたジャーナリストもいる。いったいこの映画、現代とどこが違うんだ?とも。予告編は上映されたようだが、本編はロシアでは上映禁止だとか。

 

 スターリンの独裁時代、ある日突然、部屋のドアがノックされる。秘密警察NKVDである。罪状はスターリンが決める。リストに載れば連行され拷問され、殺される。映画の中では日常的な拷問のシーンも出てくるがテンポが速いため、それまでもがギャグの一部になっている。


 みないちように、自分には突っ込まれるところがないかどうか、生き抜くためにはどうすればいいかを考えている。政治家や軍人はもちろん、息子の密告によって逮捕される父親もいる。が、スターリン死去の恩赦で戻ってきて再会なんてシーンも。笑えるけど笑えない。


 1953年スターリンの突然の死去。ここからが本編、跡目争いが始まる。社会主義国家の建前を互いに振りかざして国葬を舞台にライバルが競い合う。旧来のロシア文化と社会主義のミスマッチも面白い。

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 登場人物で私が知っているのはフルシチョフとマレンコフぐらいだが、ここにスターリンの息子や娘がまじって主導権争いの狂騒が繰り広げられる。歴史上の人物に対しての敬意などまったくない。自分の身を守ることと自分がいかに生き延びるか、欲望と欲望のぶつかり合いだけが描かれる。滑稽この上ないのだが。

 

 映画は突然終わる。それほどの盛り上がりがあるわけではない。これで終わり?という感じ。

 とにかくテンポが速く、音楽がそれをどんどん加速させていく。

 所詮、他人のこうした争いや諍いは、自分を埒外に置けばみなギャグっぽくばかばかしく見えるもの。

 しかし、たぶんだれもがそうするように、私もトランプや金正恩プーチンエルドアンロドリゴ・ドゥテルテなどを思い浮かべるし、この国のもりかけ宰相から、今話題のボクシングの山根会長やレスリングの栄監督、日大の田中理事長、アメフットの内田監督などを思い浮かべる。そして私が生きてきた狭い世界にもいたミニチュアの独裁者たちのことも。

 

 経験的に云えば、恐怖と忖度によって成立する社会は、時々その姿を白日の下にさらすものだが、いったんはチャラになったと見せかけてゾンビのようにまたあちこちで再生するものである。

帰ってきたヒトラー』に通じるものがこの映画にはある。嗤うものとわらわれるものと。 

 映画なのだから、ああ面白かった!でいいのだと思う。それなのに最後まで笑いきれない居心地の悪さ、つい後ろを振り返ってしまうような心もとなさが残る映画でもあった。

 

f:id:keisuke42001:20180811145620j:plain          平山郁夫が描いた原爆のきのこ雲(平山郁夫記念館)