小説「美しい顔」(北条裕子『群像』6月号)にみる伝えることの「当事者性」について① 大和市文化創造拠点「シリウス」で群像6月号を見つけた

    夕刊に月に一度掲載される文芸時評で,「美しい顔」という作品が群像新人賞を受賞したことを知った。書き手の北条裕子は全く知らない人だが,評者佐々木敦の絶賛に近い批評に刺激され,雑誌『群像』を探してみた。

   評判となっているのか6月号は店頭ではすでに売り切れ,ネットにも新本はなく,中古が3倍の高値に。区の図書館ものぞいてみたが,月刊誌コーナーに『新潮』や『オール読物』はあっても『群像』はない。単行本が出るのを待つしかないかと諦めかけた。
おとといコンサートで初めて訪れた大和市の「シリウス大和市文化創造拠点)」の雑誌コーナーで『群像』7月号を発見。もしやとふたをあけて格納庫?を覗いてみたら6月号があった。

   1階から5階まですべて図書空間というコンセプトでつくられたこの図書館,2016年開館。うわさには聞いていたが想像を超えていた。

   ゆったりしたエスカレータで4階まで上っていく。5階まで吹き抜けに。各フロアはかなり広い。思い思いのスタイルで老若男女が本を読んでいる。いや眠っている人もいる。テーブルも椅子もいろいろで,思い思いにリラックスしているよという空気が流れている。何とも自由で開放的な空間。年に300万人が訪れるのだとか。

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シリウス1階(写真はネットから拝借しました)

   わが区の図書館を思わず引き比べてしまう。みなとみらい地区などいわゆるかたかなのヨコハマとは違って,私が住んでいるのは横浜の周縁部。大和市と町田市に隣接する瀬谷区だ。本当にここは横浜か?と思うことがよくある。社会資本はともかく文化的な恩恵は皆無に等しい。音楽を聴くにも映画を観るにも電車を乗り継いで一時間。最寄りの駅が田園都市線だから東京に出てしまうことも多い。

   横浜市民でもカードがつくれることを知り,すぐにつくってもらい,6月号を借りた。カードをつくるのも簡単。借りるのはもっと簡単。貸出機の上に本をおいてカードをかざすだけ。 

   いよいよ一読。圧倒された。小説で描かれるのは2011年3月11日以後のことだ。17歳の女子高校生の「私」のモノローグの鬱屈した激しさとほとばしるような強さ。

 「私」の住む土地は津波によって大きな被害を受けたが,名前が知られていないゆえに支援が届かない。数日を経てようやく訪れたマスコミに対し彼女は「可哀そうな少女」を演じながら,マスコミに対し内面ではこれ以上ないというほどの冷笑と侮蔑を浴びせる。しかしこの小説,マスコミがつくりだす被災地物語の軽薄さを批判するのがテーマではない。 

  

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すでに群像新人賞の選者高橋源一郎氏や多和田葉子氏,辻原登氏らが,紹介も含めた批評を行っているし,今日のニュースでは,この作品が芥川賞の候補にもなったことが報じられているから,今後もすぐれた批評が続くはずである。門外漢の私が背伸びして論評することもあるまい。 

   ここで私が触れておきたいのは,「伝える」ということの当事者性についてである。

 北条は掲載された作品のあとに短い「受賞のことば」を寄せている。作品とこの「受賞のことば」をシンクロさせたとき,「伝える」ことの現代的な意味のようなものが見えてくるような気がしてならない。