『ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに』サーロー節子さんという人の存在感、ある種のカリスマ性、魅力が詰まった映画だ。よどみなくというのとは少し違う、説得力のある英語。毅然としたたたずまいと強い視線。近くでこういう人を見たことがない。稀有な人。

22日(木)藤沢のかかりつけ医の受診日。

ずいぶん久しぶりに伊勢佐木町のシネマリンに行く。

狭い劇場なので、閉所気味のわたしは苦手なのだが、去年から座席指定ができるようになったというので、さっそく予約する。チケットは番号ではなく、スマホQRコードをコピーして持っていく方式。

 

二本続けてみる。

 

ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに』(2019年/82分/アメリカ/原題:The Vow from Hiroshima/監督:スーザン・ストリクラー/製作:スーザン・ストリクラー 竹内道/日本公開2021年4月17日)

 

集客が見込めないのだろう、ロードショーは全国8館だけ。残念。関東では渋谷と関内。あとは京都、大阪、広島など。

 

2017年にノーベル平和賞を受賞した国際NGO核兵器廃絶国際キャンペーンICAN)」の発足当時より、同団体を代表して国連や国政会議で被爆者としての体験を伝え続けてきた日本人女性・サーロー節子の活動を追ったドキュメンタリー。13歳の時に被爆し、300人以上もの学友を一瞬にして亡くしたサーロー節子。その後カナダ人と結婚してトロントに移住し、全世界へ向けて平和活動を続ける彼女を、4年間にわたって密着取材。さらに、被爆2世である本作のプロデューサー・竹内道が、節子との出会いを通して自身の家族の被爆の歴史に目を向け、被爆2世としての自分を見つめ直していく姿を描く。(映画ドットコムから)

 

サーロー節子さんという人の存在感、ある種のカリスマ性、魅力が詰まった映画だ。よどみなくというのとは少し違う、説得力のある英語。毅然としたたたずまいと強い視線。近くでこういう人を見たことがない。稀有な人。

 

映画はサーローさんの来歴を被爆から追うが、あえてその心情に踏み込まない。ひたすら前へ進み、ノーベル平和賞受賞講演まで突っ切るのだが、その裏には夫との関係や子どもたちとの関係など、長い間にはさまざまな桎梏があったはずだ。もちろん、被爆者としての苦しみが最初にあるわけだが、カメラはひたすらにサーローさんの強い視線を外さずに追い続けている。意図的なのかどうかはわからないが、編集自体が日本的な湿っぽさを感じさせない。

 

その代わりと言っては何だが、偶然、通訳としてであった竹内道さんの家族探しの面もあって、映画に深みが出た。被爆者が「語らないこと」の意味、「語らないことで家族を守った」母のことをサーローさんがそのまま肯定するシーンが印象的だ。

 

核兵器禁止条約から逃亡を続けている日本政府にとっては、国民に見せたくない映画だろうが、世界はこういうふうにして動いているということを学ぶためには格好の材料だ。評判が評判を呼んで上映が広がってほしい映画だ。

『JR上野駅公園口』・・・ラストシーンの記述は見事と云うほかない。久しぶりに小説を読む緊張感を味わった。

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単行本も文庫本も同じ装丁のようだ


ずいぶん久しぶりに柳美里を読んだ。『JR上野駅公園口』。単行本は2014年。文庫は2017年。昨年、全米図書賞受賞ということで文庫版は32刷り。累計37万部という数字に。それほど読みやすい小説ではないし、テーマとしても重いのだが、どうしてこんなに売れるのか。

 

フルハウス』『風のシネマ』最後に読んだのは『ゴールドラッシュ』だったか。

わたしにはけっこう難解に感じられた。

3・11のあと南相馬に移住、日々の生活の記録のブログは時々読んでいた。本屋も始めたりして、生活に余裕がなさそうにも見えたし、お金のために身を持ち崩す人ではなさそうなので、これでそこそこお金が入ってよかったなあと思った。

 

2014年に発表されているが、骨太の深みのあるいい小説だと思った。媚びないというか、最後までぶれずに書ききっていて、やっぱり唸ってしまった。

 

文庫の帯の『全世界が感動した、「一人の男」の物語』というのは違うなと思った。

テーマは天皇制だ。よくぞここまでいうくらい福島の方言がしっかり再現されている。

だからこそ、東北の農民、出稼ぎ者から見る天皇、あるいは天皇制の擬制がよく見える。

解説の原武史

「・・しかも昭和天皇とは異なり、被災地などでは必ずと言ってよいほど集まった「一人一人」に向かって言葉をかけている。/それは確かに、天皇が「一人一人」と同じ目の高さにまで下りてきて、「違う顔」を認識していることを示している。けれども、天皇と国民が直接相対する関係そのものは全く変わっていない。いや、天皇と「一人一人」が直接つながることで、「一人一人」の記憶は本書の主人公と比べてもはるかに強く残り、天皇の意向は輝きを増すようになったのだ。天皇の〈磁力)はますます強まっているのである。」

 

どこまで行っても逃れようのない天皇制の磁力から逃れるすべは、小説のラストが示しているように悲劇的である。

被災者に寄り添うように話を聞く天皇皇后に対して、涙を流してうち震える民衆の姿を拒否する行為だ。

 

魅力的な表現が多いのだが、次のような一節もいい。

 

「雨の匂いがする。雨は降っている最中より、上がった直後のほうがよく匂う。東京はどこもかしこもアスファルトで覆われているけれど、公園の中には木と土と草と落ち葉があって、雨がそれらの匂いを引き出しているのだろう。」

「空を見上げ、雨の匂いを嗅ぎ、水音を聞いているうちに、いまこれから自分がしようとしていることをはっきりと悟った。悟る、という言葉を思いつくのは、生まれて初めてだった。何かにとらわれてそうしようというのではなく、何かから逃れてそうしようというのではなく、自分自身が帆となって風が赴くままに進んでいくような―、佐草や頭痛はもう気にならなかった。」

「目の前には一つの道しか残されていない。それが帰り道かどうかは、行ってみないとわからない。」

 

これに続くラストシーンの記述は見事と云うほかない。久しぶりに小説を読む緊張感を味わった。

 

 

『ミナリ』スンジャが植えるミナリ(韓国のせり)の生命力の強さが、韓国移民のメタファーであるのはわかりやすいのだが、家族間の感情のやり取りを丁寧に掬い取っている点でとってもいい映画だと思った。

映画備忘録

次の日16日。再び南町田のグランベリーシネマ。この日はMさんと二人。いまさらだがこの日、43回目の結婚記念日。働いていたころ、16日は給料日だった。

 

前から気になっていた映画

『ミナリ』(2020年/115分/アメリカ/原題:Minari/監督:リー・アイザック・チョン/製作総指揮:スティーブン・ユァン ブラッド・ピット他/出演:スティーブン・ユァン ハン・イェリ ユン・ヨジョン/日本公開3月19日) 

 1980年代のアメリカ南部を舞台に、韓国出身の移民一家が理不尽な運命に翻弄されながらもたくましく生きる姿を描いた家族映画。2020年・第36回サンダンス映画祭でグランプリと観客賞をダブル受賞した。農業での成功を目指し、家族を連れてアーカンソー州の高原に移住して来た韓国系移民ジェイコブ。荒れた土地とボロボロのトレーラーハウスを目にした妻モニカは不安を抱くが、しっかり者の長女アンと心臓を患う好奇心旺盛な弟デビッドは、新天地に希望を見いだす。やがて毒舌で破天荒な祖母スンジャも加わり、デビッドと奇妙な絆で結ばれていく。しかし、農業が思うように上手くいかず追い詰められた一家に、思わぬ事態が降りかかり……。父ジェイコブを「バーニング 劇場版」のスティーブン・ユァン、母モニカを「海にかかる霧」のハン・イェリ、祖母スンジャを「ハウスメイド」のユン・ヨジョンが演じた。韓国系アメリカ人のリー・アイザック・チョンが監督・脚本を手がけた。第78回ゴールデングローブ賞では、アメリカ映画だが大半が韓国語のセリフであることから外国語映画賞にノミネートされ、受賞を果たす。第93回アカデミー賞では作品賞、監督賞、脚本賞など計6部門にノミネート。(映画ドットコムから)

 

1980年代のアメリカ、韓国出身の移民一家の物語だが、あちこちによくわからないところがある。とりわけ宗教について。韓国はキリスト教が多数を占めるが、一家はアーカンソーの教会に通うが、ジェイコブ、モニカ、スンジャそれぞれにかかわりの違いがあり、何かすっきりしないものがあるのだが、私のレベルの知識ではよくわからない。

ジェイコブの農業を手伝い励ますポールの存在が気になる。日曜日になると十字架を背負って歩くのだが、どこか宗教的な寓話風。ミナリ(韓国のせり)を植えるところで出てくる蛇の存在も気にかかる。蛇は何かの比喩か。

スンジャが認知症を発症するシーン。男児デビッドは夜尿症が治らないが、ある日スンジャに抱かれて眠る。朝、目が覚めると布団が濡れている。このシーン、はじめはデビッドが自分の寝小便をスンジャのせいにしているかと思ったが、スンジャがこの後様子が変わっていくのを見るとスンジャの粗相ということになる。

ポールとスンジャに対して、ジェイコブは微妙な感情をもっているのだが、それがこの映画に深みを与えていると思った。

特にドラスティックな事件が起きるわけではない。

残っているのは、スンジャとデビッドのかかわり。韓国文化をどんどん持ち込むスンジャに対して、違和感を覚えながら親密さを感じていくデビッド。心臓の病を抱えているデビッドはどこかこましゃくれているのだが、それに対するスンジャのストレートな韓国のおばあさんの振る舞いが小気味いい。花札のシーンは見もの。いくつものエピソードがどれも味わいのあるものだ。動きのあるスンジャの演技が光る。スンジャとデビッドの映画として見ていいと思った。

スンジャが植えるミナリの生命力の強さが、韓国移民のメタファーであるのはわかりやすいのだが、家族間の感情のやり取りを丁寧に掬い取っている点でとってもいい映画だと思った。

 

こういう映画もいい。アカデミー賞6部門ノミネートというのは驚くが。

ジェイコブ役のスティーブン・ユァンは、『バーニング劇場版』(2019年)に出ていたが、映画が面白くなかった。妻役のハン・イェリは印象が強い。『海にかかる霧』(2015年)での演技が印象的。特にラストシーン。強さと弱さ。ユン・ヨジョンは『ハウスメイド』(2011年)で味のあるメイド頭?の役を演じていた。このときもうまいと思った。

 

 

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『だまし絵の牙』仕掛けもうまくできていて楽しめるが、全体的に軽い。大泉洋だからそれが持ち味と言われればしかたがないが。

映画備忘録。

4月15日、南町田グランベリーシネマで

『だまし絵の牙』(2021年/113分/日本/監督:吉田大八/原作:塩田武士/出演:大泉洋 松岡茉優 佐藤浩市 宮沢氷魚 池田エライザ/3月26日公開)

 

『罪の声』の塩田武士が大泉洋をあて書きした小説の映画化。あまり舞台にならない出版業界が舞台。

旧態依然とした慣習の中での内部抗争から、業績がどんどん停滞していく会社にあって、思いもかけない発想から新業態を生み出すといった物語。

守旧派とみられる勢力が大御所の作家を文芸誌で社内に囲いこみ、他部署に手をつけさせないのに対して、新勢力が新雑誌でこの大御所を奪い取ってしまう、それがきっか家けなって内部抗争に火が付く。

 

最後はふたつのどんでん返しで大団円となるが、ネタバレをしてしまうと小説も映画も面白みの半分くらいが消えてしまうので、ここまで。

 

一つだけ、日本の出版社がアマゾンと手を組んで生き残りを画策するというのは、ありうるのだろうか。

そもそも映画の中では、出版社がテレビのニュースなどで派手に取り上げられたり、新進作家の新企画発表の記者会見にホテルと思われる広い会場で記者会見なんてありうるのだろうか。

もう一つのどんでん返しも小気味はいいが、トンデモ話で終わってしまうようなもの。

映画『ミセスノイジー』のほうが、出版界のリアルをよく描いていたと思う。

 

仕掛けもうまくできていて楽しめるが、全体的に軽い。大泉洋だからそれが持ち味と言われればしかたがないが。

大泉洋はあまり評判にはならなかったが、『こんな夜更けにバナナかよ』が印象が強い。

本編では松岡茉優木村佳乃がよかった。特に松岡は、大御所作家国村準とのからみで酔っぱらシーンはとくに。

タイトル設定もよくできているが、それ以上ではない。

『文学者の見た世紀の祭典 東京オリンピック』・・・「ところで、やはりオリンピックは、やってみてよかったようだ。富士山に登るのと同じで、一度は、やってみるべきだろう。ただし二度やるのはバカだ。」(菊村到)

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二日ぶりの境川河畔散策。快晴。

鯉の恋の季節

月初めに鯉が川をさかのぼる姿を見た。つい先日は、鯉が水中から飛びがあるところも。

きょう、川のあちこちで何匹もが入り乱れる壮大なシーンが見られた。1昨年はよく見かけたが昨年はほとんど見なかった。そういうものなかどうか、わからないのだが。

 

昨日、久しぶりに外出。

と言っても、痛飲である、いや通院である。

7時過ぎのバスに乗り、鎌倉まで。病院到着は8時39分。検査、診察、入院説明、会計、昼食まで済ませて玄関を出たのが14時20分。帰宅は16時過ぎだった。9時間。こういうのを一日仕事というのだろう。

 

月曜日のせいか、かなり込んでいた。

気の毒なのは老人たちである。長い時間待たされて、今自分がどこにいるか分からなくなっている人もいる。

名前を呼ばれても、返事ができず、看護師がひとしきり探して戻ってきたところで、ゆっくり手を挙げる人。病院のスタッフもそうしたものとゆったりした対応を心掛けているようだ。自分の名前を呼ばれると律儀になるべく早くと急ぐ老人が多いが、「ゆっくりきてくださ~い。大丈夫ですよう」と声をかけている。

 

検査の前には必ず名前と生年月日を聞かれるが、外にいても大きな声で生年月日を言うのが聞こえることがある。大正15年〇月〇日!という大きな声には驚いた。かくしゃくとした男性。95歳か。

 

診察が遅いと苦情を言っている老人も。妻を連れて受診していると見えた高齢の男性、いつになったら診察してくれるのか、妻も疲れてきている、今日は介護の人が来るのだからと係に食って掛かっている。我慢しきれないのも分かる。

いつ名前が呼ばれるかわからないまま待たされるというのはつらいもの。

 私の後ろで入院説明を待っていた女性は具合が悪くなってしまった。

 

私もずいぶん待たされた。イライラもしたのだが、いくつもそうした場面に遭遇すると、自分などさしたる急ぎの用事があるわけでもなし、文句を言わずに本でも読んでいようと思う。

 

甘い胸算用では、10時過ぎには病院を出て茅ケ崎へ。乗ったことのないJR相模線に1時間揺られ横浜線橋本駅近くの映画館へ。川崎と橋本でしかやっていない映画『BLUE』を見るつもりだった。電車と映画の1日・・・不成立。

 

院内のローソンで弁当を買って食べる。ドトールでコーヒーを飲んだ13時過ぎには、方針変更、若葉町のジャック&ベティで『街の上で』の15時からが見られるかななどと考えていたのだが、これも結局不成立。

 

暇に飽かせて読んでいた本は、

『文学者の見た世紀の祭典 東京オリンピック』(講談社文芸文庫

文庫なのに1760円。

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1964年。私は11歳。記憶に残り東京オリンピックを文学者たちはどう見ていたのか。

まだタレントなどという人がほとんどいない時代、世相に対する批評やコメントは小説家たちの独壇場だったようだ。

掲載されたのは新聞、週刊誌など。

 

思いもかけぬ文章に出会う。

 

 優勝者のための国旗掲揚で国歌吹奏を取りやめようというブランデージ提案に私は賛成である。/国が持っている原爆の数が金メダルに数に比例するような昨今のオリンピックでは、参加者のユニットを国歌という形で考える限り政治性というものを完全に脱色する訳にはいくまい。

 

 オリンピックにあるものは、国家や民族や政治、思想のドラマではなく、ただ、人間の劇でしかない。/その劇から我々が悟らなくてはならぬ心理は、人間は代償なき闘いのみにこそ争うべきであり、それのみが人間の闘いであるということである。/祖の闘いこそ美し、まことに雄々しく荘厳である。

 

 民族とか国家とか、狭い関心で目をふさがれこの祭典でなければ見ることのできぬ、外国人対外国人の白眉の一線を見逃してしまうことも最も愚かしいことと思う。

                     (「人間自身の祝典」から)

 

 

 

1964年10月11日、開会式の次に日の読売新聞に掲載された文章の一部である。大げさな物言いは変わっていない。さて、これを書いたのは誰?

 

32歳の石原慎太郎である。こんなまっとうなことを言っていたことに驚く。

とはいえ、開会式では力みかえっていた石原、5日後には地金をのぞかせる。

 

10月16日の読売新聞には、

 

・・・優勝者への国旗掲揚と国歌吹奏の廃止を唱えるブランデージ提案に私は賛成である。なぜならば、こう他人の国歌や国旗ばかり仰がされたのではやりきれないから―。

                     (「欠けているもの」から)

なんだ、やっぱり・・・。

 

私が気に入ったのは、菊村到である。

ほかの作家が入魂の文章をものしようとしているのに対し、力が相当に抜けていて、その分本質に迫っているなと思った。

少しだけ引用する。

 

 オリンピックも、いよいよ、きょうで幕を閉じることになった。

 オリンピック、おりんぴっく、とあんなにさわぎたてていたのに、もう、終わってしまうのか、と思うと、なんとなく、あっけなく、はかない気がする。そういうところは、たぶん人生そのものに似ているのだろう。

 

 では、私は、こんどのオリンピックで、なにに、いちばん、感動しただろうか。そう考えなおしてみると、格別、心を動かされた、というほどの場面にも出会っていない。

 

 きょう、いよいよ、閉会式である。

 しかし、すでにいくつかのチームは、閉会式を待たないで、さっさと帰国してしまった。せっかく、オリンピックに参加していながら、最後の閉会式に、つきあわないというのは、すこし水臭い気もしないでもないが、みな、それぞれ、家庭の事情があってのことに違いない。

 むしろ、自分の出場すべき種目に、すべて尽くした後は、さっさと自分の国に引き上げて、さりげない表情で、本来の生活の中に帰っていく、というほうが、アマのスポーツマンの態度としては、本筋であるのかもしれない。

 

ところで、やはりオリンピックは、やってみてよかったようだ。富士山に登るのと同じで、一度は、やってみるべきだろう。ただし二度やるのはバカだ。

              (読売新聞10月24日 「やってみてよかった」から)

 

57年後、「バカ」まで100日を切った。

毎日、聖火リレーというヒトラーが1936年のベルリンオリンピックでつくり出したイベントが、コロナの報道とセットで報じられている。

 

1964年の聖火リレーは、日本が長い間蹂躙した中国や朝鮮半島は素通りだった。

聖火は、返還前の沖縄を通った。

最終ランナーの坂井さんは、1945年8月6日生まれだった。

 

かつてのオリンピックは戦争の記憶を色濃く反映されたものだった。文学者の文章にも随所にそれを感じた。

 

 

バイデンも支持せず。じわじわと中止が見えてきている。

コロナだから中止ではなく、コロナがなくても中止、である。

 

 

温又柔『魯肉飯のさえずり』を読む。「ことばがつうじるからってなにもかもわかりあえるわけじゃない」

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近所のお宅の柿の木の葉っぱ


『魯肉飯のさえずり』(温又柔(Wen Yuju)/2020年/中央公論社/267頁/1650円+税)

を読んだ。

温又柔は1980年台湾・台北生まれ。3歳の時に家族とともに東京に移住。台湾語交じりの中国語を話す両親のもとで育つ、と巻末にある。

 

小説のほうは、日本人の父親と台湾人の母親の間に生まれた桃嘉が主人公。

魯肉飯は台湾料理の定番、と言われる。

しかし小説のタイトルのルビは、一般的に言われる”ルーローファン”ではなく、”ロバプン”となっている。魯肉飯の台湾風の読み方。

 

日本で日本人として育った桃嘉は、就職活動がうまくいかない。そんな時、誰もがうらやむ聖司から求婚される。物語はここから始まる。

 

平穏な新婚生活の中で訪れる小さなずれ。自分の好物料理を知ってもらいたいと、母親直伝の台湾風豚肉煮込みご飯、魯肉飯をつくるが、聖司は「もっと当たり前の料理がいい」という。

小さなほつれから気持ちはすれ違い、聖司は浮気に走る。

どこまでも「かわいい妻」として桃嘉を遇する聖司は、つまるところ桃嘉を一人の女性としてみることはしない。桃嘉の働きたいという気持ちも、聖司には通じない。

 

一方に日本人と結婚した台湾人の母雪穂は台湾語と拙い日本語交じりの話し方をする。桃嘉は小さい頃からそれが嫌で雪穂に反発、外では日本語だけ話して!と雪穂に言ったこともある。

しかし両親の間にある親密なものは、今の桃嘉たちにはないものだ。

 

聖司の友人の集まりに出て感じる孤独。それは、雪穂が長年感じ続けてきた孤独とつながっていると桃嘉は考える。

 

さしたる事件も起こらず、桃嘉は聖司と離れていくのだが、小説は日常の男女のずれがどこに由来するものなのか、丁寧に追っていく。互いの距離感がどんなふうに形成されているのか、そしてそれがいかに強固なものなのか、聖司の両親や妹を通して描かれ、それを縮めるために何が必要なのかを、桃嘉の視点から語られていく。それは、日本と台湾の、台湾にとっては中国との関係も含めて、歴史の産物でもある。

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最後の一節。

 淡水河が輝いている。鳥たちがさえずっていると思いきや、伯母たちが手招きをしている。母もいる。でも、みんな少女のような年頃なのだ。円卓を囲む人々に加わった桃嘉を抱きとめてくれたのは祖母のようである。祖父もいる。ほかにも会ったことはないけれど知っている人たちがたくさんいる。木彫りの祭壇からは懐かしい匂いが身をくねららせていて、そこよりももっと遠くにいるはずの絵描きだった曽祖父が近づき、色とりどりの音を描くためにの絵の具を分けてくれる。おいしそうな声が聞こえると思ったら宴はとっくにはじまっていた。鍋の中の魯肉飯(ロバプン)をたらふく食べているのは、今よりもずっと若い頃の父? 女の子がそばに駆け寄ってくる。ママ、と呼ぶ。(ことばがつうじるからって、なにもかもわかりあえるわけじゃない)          目が覚めた時、桃嘉は何十年も旅をしたあとのような余韻の中で思う。あの子はかつてのわたし? それとも・・・・。

 

読者を引きずり込む力は並大抵ではないと思う。

2020年の織田作之助賞受賞作品。遅ればせながら、エッセイ『台湾生まれ 日本語育ち』と2017年の芥川賞最終選考に残った「真ん中の子どもたち」も読んでみるつもりだ。

 

 

オリンピック中止を政治利用させるな。もともとウソと金で誘致した代物。誘致自体が失敗だったと認めさせるべき。

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」(日経ビジネス)というコラムが好きだ。『噂の真相』に連載されていたコラムは「寸鉄人を刺す」鋭さで、毎回楽しみにしていた。2年ほど前にアルコール依存症からの脱却をまとめた本も面白かった。

 

久しぶりに今朝、彼がTwitterで「オリパラ中止」についての言及していたので、コラムを見に行ったら「有料」に変わっていた。そういえばここ1,2か月読んでいなかった。以前はかなり長めのコラムを全面無料公開していたのだが。

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これだけ誰もが「オリパラは中止するしかないんじゃないの」と思っているのに、口に出せない雰囲気がある。そんな中、二階幹事長のああいう発言「これ以上とても無理だということだったらこれはもうスパッとやめなきゃいけない」は、単なる乱心では「堰」決壊の花道をつくったようにも思える。

 

首都圏中心に集中的?選択的?まんぼう(マスコミは、政治家たちの「印象がよくない」という言葉に一斉にこの言い方をやめた。まだ使っているところがあったら教えてほしい) の指定が行われたが、尾身会長の談話など見れば、いつ緊急事態宣言になるかかわからない。

 

そのときに、だれがどんな筋書きで動くのか。小田嶋氏は友人の「見立て」をまとめてこう書いている。

 


1.いくつかの国や競技団体が五輪への不参加を言い出す
2.小池百合子都知事が突然五輪の中止を宣言
3.ついでにIOCとの契約の詳細(どうせ守銭奴契約)を暴露
4.右も左も小池百合子バンザイ状態
5.責任を取って都知事を辞任とか言い出す

6.でもって衆院選に打って出る
7.もちろん小池新党を結成。しかも維新あたりと握手
8. 当然、菅さんの選挙区から出馬する
9.どうせ大勝利
10. 日本初の女性宰相へ……とか

度胸と潮の流れを見るという点で(調子に乗りすぎての失敗もあったけど)、使える物(者)なら何でも使う、使えない物(者)は、平気で肥溜めにでも落として何とも思わない、のがこの都知事。世間がオリパラから気持ちが離れているのはお見通し。どうやって「中止」を利用するか、「私はなんつったって開催都市のトップよ」

これを使わない手はない。

 

あからさまにみんなが「次の一手」を勝手にてんでばらばらに云々(でんでん=by安倍)することに意味があると思う。

「さあそろそろ出るぞ~出るぞ~出るぞ~」とみんなで言っていれば、お化け屋敷のお化けはなかなか出てこられない。そこそこの怖さがなければ客は「な~んだ、つまんねえーの」となってしまう。

 

「中止」は大前提!問題は「中止」を政治的に利用させないこと、オリンピック誘致そのものが間違いだったことを認めさせること、1回ならまだしも2回も開くバカはいない(菊村到)ことを、目立ちたがり屋に思いしらせるべき。

 

小田嶋氏のコラムの「有料部分」に何が書いてあるかは知らないが、私はそのためにみなで「出るぞ~出るぞ~出るぞ~」をやる時期だと思う。

 

では誰が中止を言い出すのか。

 

小池は本命だと思うが、まだまだほかにもたくさん対抗馬がいる。見えない?ダークホースもいる・・・。

本命その2

アメリカに行って世界の首脳で一番最初にバイデン大統領と会談をしたと、いい気分の菅。「まんぼう」の正式名称を何度も言い間違えたりして防戦一方だった国内情勢、帰国すれば西も東も感染の嵐が吹き荒れている。口では「オリンピック、なんとしてでもやる」と言いながら、「やめるならいつか」を考え始めているはず。

(そういえば、毎朝ホテルでとりまきを呼んで官房機密費でたっかーい朝食を食べていたのをマスコミは報じなくなった。記者会見で指名されない東京新聞さえ〈首相の一日〉を「官邸内の敷地内を散歩」で始めている。残念である)

 

東京オリンピックパラリンピック競技大会担当大臣の丸川珠代。この人の小池に対するライバル意識は、フェアプレー精神など寄せ付けない(と思う)。「私はオリパラ担当の国務大臣よ。私を差し置いて勝手なことはさせない!」。自分は別姓を使用しながら、夫婦別姓導入に反対するなと自治体に圧をかける一因になっていながら、国会では逃げに逃げる。一方、子ども手当法案の強行採決時、参議院で「この愚か者めが!」「このくだらん選択をしたバカ者どもを絶対忘れん!」と叫んだ。ひたすら安倍にくっついた日本会議べったりのこの人は大の小池嫌い。「私こそ、決める」と思っているのではないないか。

本命その3

もう一人、忘れてならないのが、2020年東京オリンピックパラリンピック競技大会組織委員会委員長の橋本聖子だ。

2013年に表ざたになった柔道競技の暴力的指導に対して、国会議員の立場から、告発した15名の強化選手が「プライバシーを守ってもらいながらヒアリングをしてもらいたいというのは、決していいことでない」「あまりにも選手のプライバシーを守ろうとする観点から、15人の選手が表に出ていないことをどう判断するか。非常に大きな問題だ」と発言した人

その1年後に明らかになった自分のセクハラ、フィギアスケートの高橋大輔に対しキスを強要、口止めまでした。その辺のセクハラ親父と違いはない。それ以上に同じフィギアの浅田真央に対する「安倍とハグしろ」発言に至っては、これはもうお大尽(ほんとだ)に対して娘を差し出すやりて婆の態。

がらがらぽんで手に入れた組織委員長の椅子、「使わないでか」と考えているのでは。

 

 

いやもう一人、いる。

ダークホース

出るぞ~出るぞ~出るぞ~とみんなで唱えていると、

「わたしのことか?」

 

「小池、丸川、橋本・・・女性が多いと時間がかかるわなあ」。

 

葬り去られたユーレイのような森さん。

この人がぬうっとでてきて

「中止だよ~!」といえば、

「出たー!」となるかもしれない。

 

所詮、うそと金で誘致したオリパラ、こんなところがオチだろう。

 

コロナがなくてもオリ・パラはいらない。