『マイ・ブックショップ』・・・いい絵をみたような満足感に近い。

 4月の終わりに見た映画だが、まだ何か熾火のように残っている映画。

 

「マイ・ブックショップ」(2017年・スペイン・112分・原題:La libreria・イザベル・コイシェ監督・エミリー・モーティマー主演)★★★★★

 

 イザベル・コイシェは、『死ぬまでにしたい10のこと』の監督。いい作品だった。他の作品は見たことがないが、『マイ・ブックショップ』も素晴らしい映画だ。タイトルはスペイン語で「図書館」の意味、本屋の話である。

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 1959年イギリスのある海岸地方の町。書店が1軒もないこの町でフローレンスは戦争で亡くなった夫との夢だった書店を開業しようとする。しかし、保守的なこの町では女性の開業はまだ一般的ではなく、フローレンスの行動は住民たちに冷ややかに迎えられる。40年以上も自宅に引きこもり、ただ本を読むだけの毎日を過ごしていた老紳士と出会ったフローレンスは、老紳士に支えられ、書店を軌道に乗せる。そんな中、彼女をよく思わない地元の有力者夫人が書店をつぶそうと画策していた。(映画.comから)

 

 こういうふうにあらすじを書かれると、まったく違う映画のような気がするから不思議だ。

 

https://youtu.be/1N6RMF7E8R0

 

 戦争未亡人が本屋を始めるために孤軍奮闘するドラマチックな起業の物語、ではない。またフローレンスとエドモンド・ブランデッシュ演じる引きこもりの老紳士ビル・ナイの老いらくの恋愛物語でもない。

 剛腕、絡め手を自在に使う町の有力者パトリシア・クラークソン演じるガマート夫人と孤立無援のフローレンスとの闘いの物語でもない。はたまた語りを担う小さな妖精のような従業員との濃密なかかわりの物語にもなってはいない。


 映画は、どの線にもあえてのめり込むまいとしているようだ。田舎町で起きた取るに足らない事件をさらっと描いている。物語、ドラマチックということを拒否するところに味わいを見出しているようだ。


 一貫して惹きつけられるのは、随所にみられる街のたたずまいと、そこに住む人々の自然な立ち居振る舞い。海辺の町のにおいが漂ってくるような気さえする。

 そしてなにより主要登場人物のそれぞれの表情。

 フローレンスの思索的で時にチャーミング、怒りや諦めそして穏やかな愛情を秘めた豊かで深い表情、これが素晴らしい。1971年生まれのエミリー・モーティマーという女優。一度も見たことがない。『メリー・ポピンズリターン』(2018)が最新の出演作。

 

 引きこもりの老紳士エドモンド・ブランディッシュを演じるビル・ナイも素晴らしい。セリフのないときの表情に顕われる感情の奥深さにしびれた。

 

 この二人の関係が1つの中心軸。

 

 ブランデッシュは妻を亡くして、長いこと引きこもりの生活を続けてきたが、町に表れたフローレンスから選書のアドバイスをしてほしいと請われ、次第にフローレンスに惹かれていく。

 

 フローレンスが、外目は廃屋に近いブランディッシュ家を訪ねるシーンがとっても良い。

 何を着ていこうかと迷いながら、赤いドレスをまとったフローレンス、壊れかけた門扉を抜けて玄関を叩くが誰も出てこない。鍵はあいている。中に入って階段を上ると、きちんとした身なりのブランデッシュが待っている。この時の二人の戸惑いと期待の表情がいい。

 

 なぜか二人でカップやソーサーなどお茶の準備をする。テーブルの上にはケーキ。セリフは少ないが、互いの気持ちの切り結ぶ分とそうでない部分が交叉し合う。ケーキも食べずに短い時間でフローレンスは辞去するのだが、二人の間に一本の絆がつながれたことがわかるシーンだ。

 

 ブランデッシュのアドバイスもあって一時はうまくいくかに見えた本屋の営業が、ガマート夫人の執拗な妨害によってとん挫する。

 海辺でたたずむフローレンスのところにブランデッシュがやってくる。このシーンも言葉少なだ。わずかにブランッシュがフローレンスの手を軽く握るだけだ。

 

 ブランデッシュは意を決して、フローレンスの本屋を葬り去ろうとするガマート夫人と対決する。
 

 有力者であるガマート夫人は、フローレンスが保有している古い建物を芸術文化センターのようなものとして保存したいと考えている。そのため、甥を使って法律を作らせ、合法的にフローレンスを追い出そうとする。

 

 ブランデッシュとガマート夫人の対決は見ものである。かつて二人の間には何らかの行きがかりがあるようなのだが、はっきりとはわからない。かつてブランデッシュがガマート夫人を拒否したことが偲ばれる。

 二人の勝負は最初からついている。ブランデッシュは負ける闘いを挑んで、失意の中で敗北していく。しかしガマート夫人は、フローレンスとブランディッシュの見えない絆に、深く傷ついている。


ブランデッシュは、自宅の門扉の前で倒れ亡くなってしまう。

 

 フローレンスの店にガマート夫人の夫が弔意を表すためにやってくるシーンも秀逸。

 夫はガマート夫人から、ブランデッシュの訪問の来意を捻じ曲げて伝えられている。 まるでブランデッシュが芸術文化センターに賛意を示していたかのように。

 

 フローレンスは、その誤解を解くことなく夫を激しい言葉で追い出す。フローレンスが大きな声を出すのはこのシーンだけ。言葉はいらない。


 失意の中、フローレンスは船で帰っていくのだが、その眼の先には煙を上げて燃え始めるフローレンスのブックショップ。見送る小さな従業員。

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 成長してブックショップを経営する小さな従業員の独白で映画は閉じられる。

 本に対する偏愛とだけまとめるには、深い感情のひだが感じられる映画。こうして書いていても、この映画を上手く伝えられたとは思えない。


 なんだかいい絵をみたような満足感に近い。

 

 

 

映画『ブラッククランズマン』ストーリーと登場するキャラクターを「観客」という神の位置から見るのでなく、「では、おまえはどこにいるのか」と映画は迫ってくる。

youtu.be

   忘れないうちに映画、先ず二本について書いておこう。

 

「バーニング劇場版」(2018年・韓国・148分・イ・チャンドン監督・主演ユ・アイン・2月公開)★★

 


 「劇場版」という変なタイトルがついているが、昨年暮れにNHKで95分のバージョンが放映されたことによるらしい、みていないが。


 この作品、カンヌでパルムドール賞を争ったとか、アカデミー賞作品賞の9作品に残ったと云われるが、正直、私には退屈だった。

 タイトルも含めて村上春樹の空気を感じさせるところがいくつかのシーン、キャストのキャラクターの立て方、セリフに見られるも、それが何?という感じ。

 ところどころに感じる既視感、たしかに村上春樹らしさはあるが、148分を貫く映画の面白さがないと思う。

 ストーリー性がないということではない。ストーリーなんかなくても面白い映画はたくさんある。何というか内向き。

 映画に中に入っていけなかったし、したがって何も伝わってくるものがなかった。昨年封切られた『ハナレイ・ベイ』はどうなのだろうか。『ノルウエイの森』もほとんど印象に残っていない。

 

「ブラック・クランズマン」(2018年・アメリカ・135分・原題:BlacKkKlansman・スパイク・リー監督・主演ジョン・デヴィッド・ワシントン アダム・ドライバー)★★★★★


 タイトルの意味は「黒人のKKKメンバー」のような意味。Kのスペルをタイトルに3つ並べている。クークラックスクラウンに対して真っ向勝負だ。


 すごい映画だ。コメディーをしっかり楽しませながら、同時に観客に対し、アメリカ社会に対して鋭い批評、批判の矢を放っている。


 その一つが冒頭のシーン。『風と共に去りぬ』。何千人の負傷した兵士たちの姿から、カメラが空中に引いてくるとアメリカ連合国陸軍の軍旗(南部連合旗)がはためいている。奴隷制度を温存し合衆国から離脱して南北戦争を戦った連合国軍の旗だ。のっけから「ほら、これでどうだ?」である。今では公的に掲げられない旗を映画に一場面としてまず掲げる。

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 このシーンは、ラストに10数秒流れるさかさまの合衆国国旗とつながる。今のアメリカだって差別を温存しているのではないかというメッセージとして読める。こういうシーンを入れながら商業映画として成立させるスパイク・リー監督には恐れ入ってしまう。
 

 単に旗一枚を骨がらみに使うのではなく、『風と共に去りぬ』のシーンを使ったのは、「名作」と名高い『風と共に去りぬ』とはいったい何だったのかと問う。

 その社会、その時代をちゃんと見ろよということだろう。登場人物の白人男性はレッド・バトラー以外みなKKKのメンバー。KKKを肯定的に描き、黒人奴隷のありようを捻じ曲げて描いた、いわば奴隷制度を正当化する白人貴族の物語であるわけだが、これを無批判に無上の美しい物語と受け入れる、そういう映画の見方をもう一度考え直してみたらどうだい、と云っているようだ。日本でも「風と共に去りぬ」は依然として名作だ。


 ストーリーは、黒人警官が白人に成りすましてKKKの中に入り込み、KKKの謀略を暴くというものだが、それ以上に驚くのは、スパイク・リー監督はストーリーの面白さで観客を映画に惹きつけながら、けっして観客を映画の中に埋没させないことだ。


 KKKのメンバーが集会の中で叫ぶ「アメリカファースト!」はまさに今のアメリカであるし、シャーロッツビルの暴動に対し「双方に責任がある」としてKKKを擁護したトランプ大統領の映像もふんだんに出てくる。また映画『国民の創生』(1915年)に熱狂するKKKメンバーの描写は醜悪だが、リアルでもある。

 ストーリーと登場人物のいくつかのキャラクターを「観客」という神の位置から見るのでなく、「では、おまえはどこにいるのか」と映画は迫ってくる。


 独特のスラングやジョーク、それに各所で挿入される音楽も私にはほとんどわからないが、それは別としても差別をテーマにしながら観客を「気持ちよくさせない」スパイク・リー監督の力量、そして批評性はすごいと思う。

 

 自分のおかれた立場をいつの間にか失念させ、「なんとなく気持ちよくなりたい」という、ある種の思考停止こそ、差別を温存させるものだとの主張がそこにはあるのではないか。

 

 今年のアカデミー賞授賞式で『グリーンブック』が作品賞を受賞したと発表されたとき、スパイクーリーは会場を離れたというが、これを児戯と嗤うわけにはいかない。スパイクーリー監督は『グリーンブック』的な映画を忌避したところに、自らが拠って立つ場所があると確信しているのではないか。


 このブログでも少しだけ触れたが、『グリーンブック』には差別問題を扱いながら「おまえはどこにいるのか」という問いかけがいつの間にか封印され、空の高みに身を置いて、差別は大変な問題だけど、いい映画だったよねと思わせるからくりがある、と私は思った。「気持ちよくさせる映画」である。言い方を変えれば「思考停止」を誘う映画ともいえる。


「ブラッククランズマン」にはそれがない。『グリーンブック』をみ終わったあとの、何か尻がむずむずして落ち着かないあの感覚が、この映画にはない。


 何の予備知識もなく見るのもいいけれど、できればアメリカの政治や歴史、音楽、映画に詳しい人にシーンごとに説明をしてもらえるといいなと思った。

 

 

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この国はこんなに軽薄だったか。 政治と マスコミとが垂れ流す夥しい情報に、安易かつ無節操に乗っかってモノを云う人たち。 空虚だなと思う。

5月1日
 「日本人の絆を感じます」
   「これからの新しい時代が素晴らしいものとなることを祈っています」
   「長い間本当にお疲れさまでしたと云いたい」

 

   ミレニアムのときも同じだった。

    大晦日と何もかわらない。

    各地で行われたカウントダウン、そして乾杯。

    ゆく年くる年か?

 

    感極まって吐かれる言葉のなんと軽いことか。
勘違いして年越しそばでも食べている人の方がどれほど罪がないか。

  政治と マスコミとが垂れ流す夥しい情報に、安易かつ無節操に乗っかってモノを云う人たち。
 空虚だなと思う。

 

 

 30年前も、悲しいとか残念だとか、訊かれれば応えてしまう人々がたくさんいた。

 そして何かを懼れるように「それはまずいでしょ?」という忖度、自粛。

 よけいなことはしないで自宅で逼塞するのがいちばんだよという面従腹背

 レンタルビデオ屋は大繁盛だった。まだよかった?

 

 時間を奪われる。時間を差し出す。時間を自分に被せる。

 

 天皇に感謝し、天皇を敬愛し、天皇とともに生きる。天皇こそ心の拠りどころ、・・・なんて考えているわけではないだろう。それならば話は別だが。

 

 積極的に肯定しているわけではないけれど、あえて否定をしてまで他の人と区別はされたくない。

 

 「こういう時はノリで楽しまなきゃ」の声。
 

 ノッていればその時間、いやその時間以降もいろいろなものを見なくても済む。
 

 「それがいいんだよ」と云うのは若者たちの声か?いやいや喜んでいるのはもっとも老獪な人たち。国民を上手に動かす術に長けた人たち。
 

 改元イベントはオリンピックそのもの。

 

 ノリたくない。目を避けていたい。何も言わず、テレビは最小限に。新聞は老眼鏡をかけずに斜め読み。

 

 

 30年前、1989年の手帳を引っ張り出してみた。

 1月7日は土曜日。

 前年の9月から重体報道が始まり、年内は自粛の嵐。
 

 

 手帳の1月7日の欄の最初に「Xデー、6:33」の記述。当時、昭和天皇の死は『Xでー」と称されていた。多くの人が初めて経験する代替わり。不気味で不安な空気が「Xデー」に表れていた。

 

 次に「S来訪」とある。25歳になる卒業生のSが遊びに来る予定ということか。この日、Sは来たのか来なかったのか。
 

 続いて「12:00~1:00執行委」とある。

 当時、私は独立系の少数組合の執行委員長だった。

 昼には組合事務所に執行委員を集めたようだ。

 その下に「臨時大会 3:00~4:00」とあって、右端に「抗議文→市教委」とある。

 「Xデー」に対して、準備はいろいろなところで粛々となされていた。組合も同様にXデー対応を事前に固めていた。

 それに従って執行委員会を開き、同時に全組合員を招集し、臨時大会を開催したのだろう。

 横浜市教委は朝のうちに全学校の校長に対し、半旗掲揚を含めた「弔意奉表」の指示を出す。これに対して組合は「弔意の強制をやめよ」という抗議文を出したのだろう。

 

 その下に「事務所開き4:00~6:00」とある。

 これは従前から予定していた事務所開き、いわゆる組合の新年の旗開きである。

 たった20数名の小さな組合。しかし一寸の虫にも五分の魂。断固として(組合的用語?)自粛せずに決行したようだ。

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 「7:00~12:00 麻」とあってその横に「I・S・M +7」。とある。「麻」は麻雀のこと。組合内の独得のルール、ありありの東まわしに鳥打ち。対戦相手3名の名前と、+7は成績だろう。負けはしなかったようだ。この日、午前様。


 1月8日、日曜日。手帳には「出勤11:30」「ビラづくり・資料印刷・校長交渉」の文字。

 憶えているのは校長交渉。K校長には前日のうちに、電話で交渉の申し入れをしている。

 要求は、天皇逝去は学校教育とは直接関係がないのだから、「半旗を掲げない、特段の対応をとらない」ことだったはず。K校長も休日出勤。

 交渉は簡単に終わった。「○○(私の名前、呼び捨て)よ、いろいろあるけどよ、なにもわざわざ事を荒立てたって、学校の中、ちっともいいことなんてねえよ。○○も立場上云わなきゃなんねえこともあるだろうし。お互い、つまらない争いはやめよう」といった内容だったのではなかったか。


 その当時、学校は荒れていた。非行と云われるもののほとんどがあった。教員は疲弊していた。チャイムが鳴っても職員室の座席から立つことすらできないまま療休に入った教員もいた。
 そんな状況の中では、外から持ち込まれるあったことすらない人の「葬儀」は、リアリティ皆無だった。
 争わず、交渉は終わった。


 その下に「事務所待機 3:00~5:30 M・I」とある。3人で各職場からの連絡を待っていたのだろう。「大漁 6:00~9:00 I」は、二人で「反省会」をしていたのか。 

 

 1月9日、月曜日。始業式。手帳には「弔旗掲げず・講話で触れたのみ」とある。校長は約束を守った。「なあなあ」のように映るかもしれないが、一校長の判断としては大きなものだったと思う。悩んでいるところなど一切見せない人だった。


 このころ、ほとんどの教員を組織していたのは日教組系の浜教組だった。7日8日の二日間で何が決まったのか、彼らは知らなかったが、誰も文句など云わなかった。


 組合からの抗議に校長室の机上に旗を掲げた校長がいた。自分では掲げず、技術員に任せた校長もいた。大仰に昭和天皇の死を嘆いて見せた校長もいた。
 

 30年前、まだ戦争責任問題がリアルに論じられていた時代。世はバブルに入ってはいたが、まだ生真面目に、戦争や政治のことを考えようとする風潮が残っていた。
 

 「君が代・日の丸」問題は、多くの人々の関心を惹く大きな問題だった。
 

 この中学では、卒業式の儀式の際、壇上にも屋上にも日の丸はなく、君が代はうたわなかった。

 校長は壇上に掲げられた自ら作成したテーマに沿って講話を行った。「卒業式講話は校長の最後の授業」という位置づけだった。校長自身、形式ではない実のある言葉を求められた。古い地域でどんなに荒れていようと、卒業式は温かい空気があった。


 そんな横浜の学校の「戦後」にひとつのピリオドを打ったのが、昭和天皇の死ではなかったか。

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 この年、1989年改訂の学習指導要領に初めて「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする」との文言が入った。

 

 

 1989年2月24日、大喪の礼。学校は臨時休業に。

 「クラスの生徒を集めたいんですけど」と私。

 「いいぞ、好きなようにやれ」と校長。

 広い校舎内を使って校内どろ巡大会。いつもフリョ―君たちの手前、縮こまっていた一年生が校内を思い切り走り回った。

 

 あれから30年。K校長は泉下の客となった。私ももうすぐ66歳を迎える。

 人込みが苦手だ。映画館もバスも飛行機も通路側の席でなければ坐れない。閉所パニックだ。
 しかしいちばんの閉所は、昨日今日のような雰囲気だ。


 空気が薄い・・・深呼吸が必要だと思う、映画のタイトルだけど。
  

フィルハーモニア・アンサンブル東京のコンサート。オケに膂力(りょりょく)がしっかりとあるから、モーツァルトの疾走感が、汗水流してという感じにならずに心地よく伝わってくる。

4月28日
 気温の乱高下が続いている。今朝は8℃。散歩に出かけるのにいったん外へ出たのだが、あまりの寒さにジャンパーを取りに戻った。
 おとといは、雨なのに春気分でシャツに綿のベストで出かけてしまった。時季に合わせて、というのが昔から苦手だ。


 昨日は三鷹へ二人で出かけた。三鷹市芸術文化センター「風のホール」でフィルハーモニア・アンサンブル東京のコンサート。もちろん初めて。

 チケットは友人のNさんにいただいた。

 横響に入っている友人のNさん、ヴァイオリン弾きだが、こちらのオケにも入って活動しているのだという。きょうは第二ヴァイオリンのところに。

 「曲は同じでもボウイングが違うから大変なのよ」。

 

 このチケット、アマチュアのオケなのになんと3000円!これは思わぬ何かがあると興味津々で出かけた。

 出かける前は、会場近くにあるという太宰治サロンと山本有三記念館を見学して、などと考えていたのだが、昼食を駅ビルのそば屋で済ませて歩き始めたら、間違えてジブリの森のほうまで行ってしまった。方角違い。ずいぶん歩いた。

 


 アンサンブルと呼称していても、40数名の編成。男性は黒系の上下だが、女性はそれぞれ着飾っている。こういうのは初めて。揃いの制服よりずっと自由で華やか。
 

 ヴィオラ奏者の土屋邦雄さんを慕ってつくられたオーケストラ。コンサートは土屋さんのおしゃべりから始まった。
 

 土屋邦雄さんは、日本人として初めてベルリンフィルの一員となった方。

 今でこそ樫本大進さんがベルリンフィルの第一コンサートマスターを務めているが、1950年代に日本人があのベルリンフィルの一員となることなど考えられなかった時代。

 

 レコードでクラシックを聴いてきた私たちの世代では、ベルリンフィルと云えば何と云ってもフルトヴェングラー、それを引き継いだのがあの帝王カラヤン。殊にカラヤンはすごかった。カラヤンと云えばだれでもがその名前を知っていた。

f:id:keisuke42001:20190428174054j:plainヘルベルト・フォン・カラヤン


 プログラムには、そのカラヤンが登場するベルリンフィルのオーディションのシーンが紹介されている。


 団員になりたいと集まった志願者たちが次々と演奏していく。ベルリンフィルの終身首席指揮者兼芸術総監督カラヤンと楽団員がこれをじっと聴いている。

 

 土屋さんが弾き終わったとき、カラヤンは急に立ち上がって彼に歩み寄り、右手を差し出してきたという。期せずして楽団員の割れるような拍手が沸き起こり、それ以後のオーディションは中止された。これが1959年のこと(一部wikipedia)。

f:id:keisuke42001:20190428174202j:plain土屋邦雄氏

 

この伝説以来、2001年まで土屋さんは40年以上にわたってベルリンフィルヴィオラを弾いてきた。

 帰日以降はドイツ、日本双方を拠点に演奏、指揮を続けておられる。現在85歳。おしゃべりにも指揮にも衰えのようなものは全く感じられない。初めてその雄姿を拝見した。

 

 小澤征爾さんに「指導してほしい」と願う指揮者はいくらでもいるが、小澤さんに「指導させてくれ」と云われた指揮者は僕だけ、という軽妙なお話しぶりも楽しい。

 

 その指揮は、流麗、華麗というよりどちらかと云うと武骨、とお見受けした。

 別の言い方をすると、情緒、雰囲気に流されないきっちりとした構成美をつくりあげていくタイプのようだ。


 プログラムは、メンデルスゾーン「フィンガルの洞窟」作品26から始まった。
 驚いたのは小編成であるのに音が大きいこと。やたらに大きい音を出すというのとは違う。オケ全体がバランスよく大きな音をもっているということ。これはタダのオケではないなと思った。そのうえ、変な力が入っていない。おひとりおひとりの技量がかなり高いのだろうけれど、土屋さんの、オケを鳴らす技法が長けているのだろうなと思った。これはアマチュアというレベルを超えている。Nさん、こんなところで弾いてるのか!すごい。


 2曲目。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第三番ハ短調ベートーヴェンってハ短調好き。

 ピアノは元井美幸さん。土屋さんのおしゃべりによると元井さんはウイルヘルム・ケンプの孫弟子にあたるとのこと。

 ケンプという名前もなつかしい。何度か日本に来て演奏したのを土屋さんは聴いているというが、私はもちろんレコードでしか知らない。
 

 ホールのことを書いておこう。風のホールと名付けられたこのホール、客席は650席。シューボックス型と云うのだろうか。自治体のホールには多目的ホールが多いが、ここは優れた音楽専用ホール。遅れて着いたから後ろから2列目の席だったのだが、すっきりとした音でとっても聴きやすいと思った。

 

 もうひとつ、今時どのホールに行っても、ピアノはスタインウエイがほとんどだが、今日元井さんが使用したのはベーゼンドルファー。ピアノの側面の文字が独特。昔から豆知識で名前だけは知っている。
 

 長い前奏部を待って元井さんが弾き始めたとき、いつも聴いていると違う音がした。弾き方の問題ではなく、根本的に違うと感じられた。ボリューム感はあまり感じられないが、より軽やかな感じ、すっきりしていると感じた。素人のそれも老人の耳、思い込みの域を超えない感想ではあるのだが。

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 30分の長い曲だが、三者の意思疎通がよく見えて、素晴らしい演奏だった。私なんかが知らないピアノの名手が、この国にたくさんいるのだろうなと思った。
 

 休憩をはさんでモーツァルト交響曲40番。これは、4月21日、Nさんが参加している横響の第694回定期で聴いたばかり。この時は40番だけでなく、大ミサ曲ハ短調という大曲も披露。大人数の合唱団もよくまとまっていて、素晴らしい演奏だった。
 

 その横響の40番は、とってもやわらかくやさしい演奏だったが、広がり、メリハリという点で若干不満が残った。

 今日の演奏は、初めにも書いた通り基本的にオケという楽器全体の音が大きく、余裕があるように感じられた。モーツァルトは土屋さんの得意な作曲家なのだろう。互いの信頼関係が伝わってくる演奏。

 

 オケに膂力(りょりょく)がしっかりとあるから、モーツァルトの疾走感が、汗水流してという感じにならずに心地よく伝わってくる。

 私は勝手に思い込んでいるのだが、モーツァルトの楽曲には、と云ってもすべてではもちろんないが、いつも何かが起きるようなドラマチックさと、同時に死に向かうような言いようのない不吉な予感のようなものを感じさせるものがある。

 今日の演奏には、それがほどよく感じられて気持ちよかった。

 

 ただ、4楽章、つまり曲の終盤にいくにつれ、やや「余裕」がなくなり、力が入りすぎ、疾走感と不吉な予感に若干翳りが感じられた。

 ふだんはそれぞれ仕事をもった方たちが集まって、これだけのプログラムをこなすというだけで大変なこと。やや疲れが、というよりちょっと本気になりすぎちゃったのかなと思った。100の力を7~80くらいの出力で演奏するから、聴く方の想像力が刺激される。演奏する方が100以上でやろうとすると、聴く方が逆に疲れてしまう。
 

 それでもとにかく満足。すごいものだと感心仕切りで帰ってきた。プロがアマチュアを指導することの意味、意義のようなものを今日も感じた。

 

 わずかだが、そんな経験が私にもあった。高校生の頃、東京混声の田中信昭さんに振ってもらったことだ。今では90歳を超えるマエストロだが、当時は40歳代。変幻自在の指揮ぶりは、今でも忘れられない時間として私の中に残っている。プロと云うのは魔術師のようなものだと思った。


 Nさんは横響だけでなく、つれあいが入っているコーラスグループで歌っている。そのうえにこんなすごいオケでも演奏しているとは、まったく底知れぬ人である。

 

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風のホール

 

f:id:keisuke42001:20190428175355j:plain庭のこでまり

 

久しぶりの菊名。回遊する地域、Iさんの試みと思い。人が街をつくる。新しい脈動。

4月26日
 6時半、外はいつもよりずっと暗い。弱雨。さほど寒いわけではない。長袖のシャツ一枚、ライを置いて二人で傘をさして出かける。


 境川河畔、鶴間小の何本かの八重桜が散り始め、50mほどのピンクの小道が出来ている。雨の中、あちこちのお宅でボタンやシャクヤクが見事な花を咲かせている。こでまりもきれいだ。
 

 雨が降っているのにカワウが羽を干している。人間にはわからないカワウの事情があるのだろう。

 

 

 所用で出かけた帰りに菊名のIさんに電話。お昼を一緒に食べることに。
 菊名にはかつて30年間住んだ。離れてもう10年近くなる。

 

 駅で待ち合わせをして目的のお店のある西口商店街へ。ずいぶんな様変わりだ。

 私たちが80年に移り住んだ頃には、魚屋、八百屋、肉屋などが軒を連ね、人通りも多かったのだが、10年前にはすでにシャッターが増え始めていた。乗降客数13万人を超える駅なのだが、東口に比べて西口の凋落ぶりは激しい。


 見知ったお店は、たばことお茶を売る老舗、同じく和食老舗のH。韓国料理のUは何度か入ったことがあるが、このあたりでは新しい方だ。入り口がラーメン屋で通り抜けると居酒屋になるというMも健在のようだが、あとはもう知らないお店ばかり。
 

 おしゃべりしながらほどなく目指すお店に到着。おからさんカフェ。入口に大きな男の子がメニューをもって呼び込みをしている。

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中に入ると車いすの青年。奥の座席に坐ると小柄な女の子が注文を取りに来る。驚くほど丁寧な接客。一つひとつゆっくりきっちり確認していく。
 ランチのメニューは、店名通りおからキッシュとおからハンバーガーの二種類。飲み物はコーヒー、紅茶、ルイボスティー、ハーブティ。私はおからハンバーガーとコーヒーを選択。Iさんも同じものを注文。


 Iさんとはこの間、ルミナスコールの定期演奏会で会ったばかりだが、演奏の間の中休みに少し話しただけだったので、今日は少しゆっくりと。


 そろそろ発売になる『現代思想5月号』を差し上げる。代わりに『教育依存社会アメリカ』『日大闘争の記録Vol.9忘れざる日々』をいただく。前者は前から気になっていた本。高くて手が出なかった。Iさんは訳者の方とつながりがあるらしい。帯は教育社会学者の広田照幸さん。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3288

 

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 話に夢中になっていたら隣の席に旧知のSさん。Sさんは大倉山、菊名を中心に障碍児者と健常者がともに生きられる取り組みを長く続けてこられた方。お二人でランチに来られたようだ。
 「これ、出たばかりなの、Mさん(つれあい)とAさん(私)にプレゼントするわ」と1冊の本を手渡される。『ぷかぷかな物語~障がいのある人と一緒に、今日もせっせと街を耕して』(NPO法人ぷかぷか理事長 高崎明・現代書館)4月20日発行とある。

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 ランチが運ばれてくる。シンプルだけど何とも様子が良い。はてハンバーガーなるものを前に食べたのはいつだったか。ロッテリアだったことは覚えている。生涯で3回ほどしか食べたことがない。このおからハンバーガー、自然な味。どぎつさがない。サラダもスープも美味しい。Iさんの話をお聞きしながらついつい進んでしまう。食後のコーヒーも私好みのしっかりした味。得した気分。

f:id:keisuke42001:20190426180536j:plainランチ:おからバーガー

 「おからさん」という名前には聞き覚えがあった。筋向いに『アトリエおからさん』というお店がある。『おからさんカフェ』はここからできたお店だそうだ。二つとも障碍者と健常者が運営に参加しているお店だ。『NPO法人フラットハート』の経営。就労継続支援B型の事業所だ。

 Sさんが長く携わっている社会福祉法人かれんともつながりが深いお店のようだ。

(就労継続支援B型とは、障害や難病のある方のうち、年齢や体力などの理由から、企業等で雇用契約を結んで働くことが困難な方が、軽作業などの就労訓練を行うことができる福祉サービスです。障害者総合支援法に基づく福祉サービスのひとつであり、比較的簡単な作業を、短時間から行うことが可能です。年齢制限はなく、障害や体調に合わせて自分のペースで働くことができ、就労に関する能力の向上が期待できます。事業所と雇用契約を結ばないため、賃金ではなく、生産物に対する成果報酬の「工賃」が支払われます。厚生労働省社会福祉施設等調査によると、B型事業所は2016年時点で1万214事業所あり、利用者は25万2597人です=リタリコ仕事ナビから)。

 

f:id:keisuke42001:20190426180755j:plainアトリエおからさんのエントランス


 Iさんは、長く菊名に住んで、こうしたいくつもの取り組みをつないでいる。いわば市民活動家だ。「地域を回遊できるような場所に」。いくつものお店をその時々の用途で渡り歩けるような、そんな地域にしたいというのがIさんの願いのようだ。

 

 おからさんアトリエの向かい側には『親子の広場びーのびーの』もある。「地域で共に育ち合う子育て環境づくり」をめざしてつくられた『認定NPO法人びーのびーの』が運営しているスペースだ。ここも回遊する場所のひとつ。

http://www.bi-no.org/bino.html


 ここまでは私も少しは知っていたのだが、Iさん、「今日はもう一つ新しいところを見てほしい」と。おからさんカフェから少し坂を上ったところに『ギャラリー&スペース弥平』があった。二階建ての瀟洒かつシンプル、素敵な建物。
 中に入ると、グランドピアノ。憲法展が開催されている。地域の方々の持ち寄りで憲法に関わる展示や書、絵画などが展示されている。小さくヴィヴァルディが流れている。いい雰囲気。

http://galleryspaceyahei.com/


HPには「築50年を越えた自宅住宅の全面改装に伴って、1階に地域の方々との交流を目指してスペースを設けました。50㎡に満たない小さいスペースですが・・・ などさまざまにご利用いただけます。カフェコーナーも開設の予定です」とある。


 喫茶店のような素敵なバーカウンターの中にいるオーナーのNさんと3人でおしゃべり。ここで小さなコンサートや講演会などが開かれているとのこと。ここでIさんたちの地域の集まりなどもよくあるという。

 


 街は生きているというが、地方ではシャッター商店街となってしまっている街も多い。

 人が集中する中央ばかりがいつもリニューアルされ、一方「地方」は忘れられ、すたれていくばかり。格差は開いていくばかりだ。

 しかしそんな「地方」のシャッター商店街も起死回生の取り組みを若者とともに始めているところも多い。


 ここ菊名も、港ヨコハマからすれば都会の中の「地方」。地形的に谷の底にあって再開発が難しい場所だけれど、でもそのぶん何か新しい脈動が生まれているのも事実のようだ。建築機械やコンクリートがではなく、人が街をつくっていく。

 

Iさんが本を入れてくれた袋に「菊名打ち水大作戦実行委員会」とあった。

 

橘学苑の労働問題。「個人は質素に、社会は豊かに」の校訓はいまは昔・・・。

    横浜市中高一貫校、橘学苑の報道が続いている。新聞やネットを通じてしか事態は把握できないが、この6年間で非正規雇用の教員72人(120人という報道もある)が雇止めにあっているという。

 

 

 橘学苑は1942年、東芝の社長でのちに経団連会長となる土光敏夫さんの母、登美さんが橘女学校として創立。1945年には敏夫さんが理事長となる。
 

 土光敏夫氏の名前が知られるようになったのは、1981年に第二次臨調の会長に就任したころ。校訓ともなっている「個人は質素に、社会は豊かに」を身をもって実践、普段着は使えなくなったネクタイをベルト代わりにし、食事は、玄米とメザシに菜っ葉に味噌汁。その清貧ぶりが話題となった。

 

 実際の仕事は徹底した合理化で会社を再建、臨調にあっては「増税なき財政再建」を掲げ、三公社の民営化を主張、実現した。1896年生まれ。その後、これほど強烈な経済人を日本経済界は輩出していないがために、伝説上の人物として語り継がれている人だ。好き嫌い、仕事の評価は別として、狡さのない清廉な人だったようである。


 そういう人が理事長であったことから、橘学苑は他の私立校とは全く違った別次元の学校であった。横浜市や神奈川県の中学の教員にとっては、競争原理を排した偏差値に縛られない人物評価で入れる女子高として知られていた。


 カリキュラムも独特で、70年代にはすでに生活の時間を導入、授業に農作業を取り入れ、80年代には総合の時間を創設、学力偏重、偏差値偏重に抗する独特の授業体系をつくりだしていたようだ。いわば、文科省がかたちだけ唱導した「ゆとりの時間」を先取り、実践した稀有な学校だった。
 

 70年代~80年代の神奈川県の公立高校はまさに「偏差値輪切りの時代」。

 入試は、受ける前から合否の9割以上が、事実上判明していた。

 中二生が学年末に全員受ける全県共通テスト、アテストの成績と、5段階相対評価の成績を学区ごとに全部の中学の進路指導が事前に持ち寄り「調整」をする。上から定員によって切っていくため「輪切り」と呼ばれた。

 「十五の春を泣かすな」という理由から官民一体となってつくりだされた選抜(選別)方式だった。
 

 私立高はと云えば、こちらもアテストと5段階相対評価を合わせたいわゆる「基準」を事前に提示、その成績をクリアした生徒は「確約」をもらうのだった。公私立とも、入試はいわばセレモニーとなっていた。
 

 

 橘学苑はそんなシステムの中で異彩を放っていた。基本的に成績は見ない、中学の教員が人物を評価、推薦してくれるのであれば、面接試験を受験。生真面目で一つのことに没頭できるが、テストの成績は振るわない女子、そうした生徒はどこにでもいる。今でいう発達障害と思われる生徒も含めて、保護者ともども受験の悩みは尽きなかった。そんな生徒をそのまま「輪切り」のシステムにほおり込めば、思わぬ高校への不本意入学となってしまう。そんな生徒に橘学苑を勧めたことが何度もあった。


 今でこそそうした高校は珍しくないが、橘学苑の場合は、日常的な学校生活の中に確固としたものがあった。在学中にいかに自分の高校が良い学校なのかを話しに来てくれた数少ない高校のひとつであったし、「3年間で成長できました」という生徒、保護者の声を、これも何度も聞いた。

 すごいなと思ったのは、当時橘学苑はそうしたシステム、取り組みを特段「売り」にはしていなかったことだ。学校訪問に訪れる橘学苑の先生と長い時間話し込んだこともある。うちはこんなにすごいことやっているんです、という雰囲気は全くなかった。公立中学でいじいじしていた私には、それはとっても新鮮なことだった。


 そんな橘学苑だから、今度の報道に驚かされた。
 

 しかし、驚いたあとに「さもありなん」と思うのだった。

 というのも、21世紀に入ってからの橘学苑は、かつてのアイデンティティを放棄し、新しい学校に変わっていったからだ。土光敏夫さんは88年に亡くなっている。
 女子中を共学化、そして全面共学へ。高校も全面共学化。国際コースを創設してニュージーランド留学開始。施設の拡充と部活動の振興に力を注ぐようになる。

 もちろん入試も他の私立高校との相違が見えなくなっていく。90年代から始まった私立高校のSI(スクールアイデンティティー)戦略と歩を同じくし、いわば学力向上を目指す「よくある私立校」になっていく。
 

 

 そんな中で今度の問題が表ざたになっていったということだ。
 

 企業の非正規化同様、学校も公立私立に限らず非正規化が進んでいる。特に私立の非正規化は激しい。正規教員となりたいのならと、正規雇用を餌にブラックな仕事を強要する経営が増えている。1月に起きた東京・正則学園の問題も根は同じである。
 

 70人(120人)が解雇されたというが、改正労働契約法による無期転換の対象となった教員も多くいたはずである。悪質企業同様、勝手に3年と任期を切って契約を進めていた疑いもあるという。

 詳しいことはわからないが、経営が営利目的のテニススクール用のドームを敷地内につくったことに対する批判を封じ込めるため、という話もある。ネットではその空撮写真もでている。
 

 生徒の人権と自主性を重んじた校風は今は昔。しかし、高校は親が自ら通って充実した高校生活を送れたからと、我が子を入学させるケースもある。かつての橘学苑をそうしたケースを好意的に受けいれていたことも事実だ。

 そんな保護者からすれば、現在の橘学苑のありようは天と地ほどの違いがあるものと映っているのではないか。この件での説明会で保護者席から「校長、逃げるな!」という声が飛んだという。口先でごまかし、逃げを決め込む校長と追及する保護者、正しいのはどちらなのか。

 

 橘学苑のもう一つの校訓に「正しき者は強くあれ」がある。まっとうに保護者と向き合わない経営が正しいわけがない。いたずらに強引なだけなのではないか。

私のクラスから橘学苑に進んだ数人の女子生徒の顔が浮かんでくる。

 かつて輝き、共感を得ていた橘学苑のためになにかできることはないか、考えている。
  

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庭で咲き始めたモッコウバラ

雨の昼上がり。長津田のそば屋“惣左衛門”へ。いい時間を過ごすことができた。

4月24日

 いつもは明るくなっている時間なのに、外は薄暗い。5時。つれあいがとってきた新聞はビニールの袋に入っている。予報は雨。庭の敷石にぽつりぽつりと雨が落ちている。気温20℃。今季最高。


    シャツ一枚での散歩。今朝は境川でなく、海軍道路方面へ。大塚さんのところの野菜がそろそろ出てくるころ。

 

   ツバメが飛んでいる。毎年巣をつくる家が通りにある。そういえば石垣島では2月末にツバメが飛んでいた。

   と、ケーンケーンの声。キジの声だ。姿は見えない。海軍道路の周囲は米軍の通信基地に接収されていたため住宅は建てらず、広大な畑地が広がっている。そこによくキジが来ている。以前もよく見かけた。


 大塚さんの販売所、と云っても畳2畳ほどの掘立小屋なのだが、張り紙がしている。「販売はゴゴから」。

 水曜と土曜が大塚さんの販売日。時間は朝7時半から?と決まっているのだが、これがいつの間にか早まってしまう。買い逃したくない客がすこしずつ早めに足を運ぶようになるからだ。何時とは書かずに「ゴゴ」というのがいい。
 

 ぽつぽつと登校する中学生を見る。まだ7時過ぎ。部活動の朝練か。

 大塚さんのところの次は森さんのところの販売所へ廻る。

 小学校の前で何人かに挨拶される。小学校の先生たちだ。近くに借りている駐車場から校門に向かうのだ。校内無断駐車はけしからんということで、公用に使われる車以外は、通勤のためのクルマは民間の駐車場を利用する。校内にどれほど敷地が空いていても、だ。嫌がらせ。どの公的機関もそうしていると。学校は不便なところにある。今までも問題なく駐車してきているのだからと、10数年前に組合で裁判を起こしたことがある。それ以後、規制はやや緩くはなったのだが、この小学校は厳しいようだ。
 

 7時過ぎに出勤する先生たち。何時に家を出て来るのだろう。見知らぬ私たちに明るく挨拶をしてくれる。

 

 ほどなく森さんの家。目のまえが小さな公園。曇天なのだが、公園の真ん中でピンクの濃い八重桜が咲き誇っている。そのとなりに柿の木。なんとも輝くような黄緑の新葉!息を呑むよう。冬の公園から一変。
 

 ほうれん草、かぶ、レタスを買う。どれもスーパーのものとは違う。ほうれん草は背丈は短いが重さは倍ほど。かぶも量が多め。レタスに至っては青い部分がしっかり巻いていて大きく重い。みな100円。
 

 帰り、学童の集団登校にぶつかる。狭い歩道なので、反対側を歩く。歩き始めてそろそろ40分ほど。「サンポ!」という音声は大好きだけれど、散歩そのものはあまり得意でないライをスリングの中へ。おとなしく首だけを出している。

 

 図書館から予約の本が入ったとのメールが来ていたので、ついでにTSUTAYAで見逃し映画を探しに行くことに。シャトレーゼの生ワインも。
 

 思いついて昼食は、長津田のそば屋“惣左衛門”へ。行きたいと思い始めてからどれだけ経ったことか。

 この店、営業時間が11時30分~14時30分、土日は15時30分まで。商売っ気がない。
 

 駐車場は一台。ちょうど空いている。店内はやや薄暗い。口開けの客のよう。接客は店主のお連れ合いか。坐ったテーブルから見える厨房にラグビーシャツを着た店主。そば屋らしい作務衣でないところが可笑しい。小さくジャズがかかっている。最近はこういうそば屋が多い。
 

 口コミを見ると、そば膳がCPもよく、おいしいとのこと。蕎麦は天せいろなどいろいろ選べる。つれあいに勧める。ちなみに今日は私のおごり。主導権は私に。

 その私は、山形県大吟醸「冽」にニシンの甘煮をあわせようと考えたのだが、今日はないとのこと。鳥の塩焼きを注文。

f:id:keisuke42001:20190424182255j:plain           今だ写真の向きを変える技術がありません。


 

 すぐにお猪口が山盛りになったざると備前風の片口に入った酒、そしてお通しのきんぴらごぼう。やや重めの大吟醸。コクがある。
 

 つれあいの前には5つの小鉢。遅れててんぷらに二色そば。一枚は桜切り、一枚は普通のそば。あとで私も二色せいろの大盛を食べるのだが、桜切りからはほんのりと甘い香りがした。

f:id:keisuke42001:20190424182318j:plain              ここに天せいろがつきます。首を横にしてみてください。

 

 2杯目は岐阜の酒“小左衛門”、こちらも大吟醸。こっちはすっきりした淡麗系。

 鳥の塩焼きが供される。これは美味い。そば膳の小鉢も賞味させてもらったが、みな品のいい味わい。そばもかなりの細身、そばつゆは甘くなくしっかりした重厚なもの。

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 雨の昼上がり。久しぶりにそば屋を堪能。夜に来てみたいものだが、かなわぬ願いのようだ。